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彼女は厳かにうなずくと、床に手を着いて後ろへ滑らせた。手で船を漕ぐような動作を繰り返すことで台車が動く。やがてピアノまで移動すると、翼を羽ばたかせて椅子に座った。
飛べるなら最初から飛んでこいよ……。
喉から出そうになったツッコミを、沙綾は慌てて飲み込んだ。
「まずは発声練習」
セイレーンの細い指が鍵盤に触れる。ふと幼少期から通っているピアノ教室の先生の顔が過り、沙綾の背筋は自然と伸びた。
音階に合わせて発声する。一通り終わると、次は課題曲へ。誰もが知る有名曲。レッスンまでに覚えるように言われていたのだ。
原曲のまま、ピアノが奏でるままに歌唱。次はテンポを変えてーーこれは想定外だったが、問題ない。音程を外すことなく、テンポを乱すことなく、難なくこなした。
「確かに、オーディションに合格しただけあって、歌は上手いわね」
当然、としたり顔を浮かべたのも束の間。セイレーンは首を傾げる。
「でも、それだけだわ」
「……は?」
「上手いだけで心がない。これじゃ観客を魅力することはできないわ」
沙綾から表情が消えた。セイレーンが何か言い続けているが、耳から耳へとすり抜けていく。
納得いかない。
心って何よ? そんな綺麗事。
「ちょっと、聞いてる?」
「ありえない……」
「え? なんて?」
「ありえないって言ってんの! この私が! 心とか抽象的なことで否定されるなんて!」
レッスン室に怒声が響く。セイレーンは戸惑い気味に眉をひそめた。
「落ち着きなさいよ。別に否定なんてしてないじゃない」
「私の歌じゃ魅了できないって言った! ていうか、なによ『魅了する』って!」
全身の熱が顔に集まるのを感じる。ここまで感情的になったのは初めてかもしれない。
「とてもレッスンを続けられる状態じゃないわね。少し頭を冷やしましょうか」
鍵盤の蓋がそっと閉じられる。セイレーンは怒鳴り返すでもなく、頬を叩くでもなく、身体ごとこちらに向き合うーーその冷静さが、腹立たしかった。
「私は、あなたの歌自体は認めてるのよ。文句の付けようがないくらいに精錬されている。でもね、それだけじゃダメなの。プロになりたいなら尚更」
「だからってーー」
「ねぇ、比名山沙綾」
じっと目を見つめたまま、名前を呼ばれた。それだけなのに、相手の口を噤ませるには充分な声音だった。
「どうして、あなたは歌手になろうと思ったの?」
初対面の相手に答える義理はない。
なのに。
「私には、歌以外、何もないから……」
気がつけば口が勝手に動いていた。
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