そして

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そして

 アン・カペルに『メダカ』という新たな伝説が生まれた。    紫はあれから熱を出して三日も寝込んだ。  心はもう、燃えはじめていた。  閉店後の静かな店内で、パチ、パチ。と音が鳴っている。  紫は長く伸ばしていた自分の爪を切る。 「ボクね。紫くんを超えたくて、ここまで来たんだよ」  向かいに座るメダカが呟いた。 「紫くんにとって、音楽は結果だけなの?」  紫は爪を切りながら、一瞬メダカを覗き見た。メダカは紫の爪を眺めていたから、目は合わなかった。 「……俺は今まで、人から褒められたくて音楽やってた。けど、俺は俺が思ってるよりもわりと音楽が好きで、ピアノを弾くのも楽しかったんだ」  コンクールの演奏に期待した。  輝かしい頃の自分が、そこにはいるはずだと。  その炎で、焼け焦げてしまいたかった。  紫は爪を切り終えると、バイオリンケースを開いた。 「お前のピアノを聴いてると、悔しくなる」 「どうしてぇ?」  メダカが歌うように言う。  今朝、弦を張り替えたばかりのバイオリン。  松脂(まつやに)を塗っておいた弓。  それを眺めながら紫は続ける。 「お前のことが好きだから」 「……………へ?」 「俺はお守りじゃねぇ。他の誰でもない、お前に置いてかれるのが嫌なんだ」  紫は弓を撫でながら言った。 「ち、ちょっと待って、今ス、スキ? フォーリンラブ?」 「んなわけあるか! そーいう意味じゃ……」  紫が顔をあげると、メダカはわざとらしく目をそらす。  メダカの顔はみるみる赤くなり、両手で頬を包み隠した。  そして、丸い瞳を細めて(やわ)らかにほほ笑む。  見たことのない笑顔。 「もっかい言って」 「嫌だけど」  なんなんだ? コイツ。  メダカの反応に困惑している内にも、耳がジリジリとしてくるのが分かってしまう。  今自分は、赤面しているに違いない。 「と、とにかく! 今の俺の音、覚えてて。絶対追いつくから」 「うん。ボク待てないから。はやく来てね」  メダカは赤い顔でニッと笑った。  バイオリンを肩に当て、指板(しばん)に指をかける。  義指(ぎし)の小指で弓を支えた。  もう、痛みはない。  指先の肉が弦に触れている。  深く息を吸いこんで――  紫は、バイオリンを弾いた。
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