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出会い
紫真一が右手の小指を欠損したのはパリ留学二年目、十七の頃であった。
帰国してからはバイオリンに縋ったが、結局ピアノのように一位に輝くことは叶わなかった。
そうして二十二になった今でも、部屋の隅で埃を被ったバイオリンが紫を責め立てている。
初秋。暑さの残る日本の湿度は高い。
桜シンフォニーホールの入口前で、白い立て看板が雨に打たれている。
紫はそこで二の足を踏んでいた。
大仰にため息をつくと、根元まで綺麗に染め上げた金髪をかき上げ、頭を掻いた。耳にはいくつもピアスがあいている。
かつての自分と同じ舞台に立つ才能は、どんな演奏をするのかと期待をよせては、やはりクラシックなんて聴く必要はないと背を向ける。そんなことをもう何年も繰り返していた。
また、同じように引き返そうとした時だった。
「うわぁぁん!!」
けたたましい絶叫が入口の方から聞こえて、紫の心臓が跳ねた。
勢いよく振り向いた瞬間、燕尾服を着た小柄な少年と激突した。
紫はタックルを食らうと、持っていた傘を手放し、水溜まりに尻もちを着く。
「いたぁ!」
と紫が声を上げれば、「わー!」と叫んでバランスを崩した少年が倒れ込んできた。
紫はとっさに少年を抱きとめる。
二人は雨に濡れ、地面にへたり込んで抱き合う体勢となった。
「最悪! 服がズブ濡れじゃないか!」
そう吠えたのは紫の方だった。
イフシックスのデニムが台無しだ。
紫の目と鼻の先で、少年の丸い瞳が白黒する。ありえないものを見るような目。
紫は少年を引き剥がし、立ち上がると、左手で傘を拾い上げた。
「じゃあな、クソガキ」
「ま、待って! キミ、指は、指は怪我してない!?」
「はぁ?」
駆け寄ってきた少年は、紫の右手をとるとハッと目を見開いた。
「あ……。いや、こ、この爪! キラキラでサイコー! ボクもこういうのしてみたい、なんて」
紫の指は綺麗に手入れされていた。長く伸びた爪に飾りが乗っている。
少年は、紫の右手に小指がないことに驚いたのを、取り繕うために話をそらしたのだろう。
だとしても、ピアニストの卵であろう彼を道づれにはできないかと、一瞬でも思ってしまった。
「じゃ、俺が働いてる店来なよ」
紫が不愛想に放つと、少年はニッとして、満面の笑みを咲かせた。
紫は少年に名刺を渡した。
ネイリストとしての名前は『ムラサキ』
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