事故

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事故

『緊急事態!事故っちゃって爪が』 『お店行くね!』 「事故……」  早朝。起き抜けに最悪の一文。  無いはずの小指が痛む。  肉も骨も、何もかもが、タイヤに押し潰される。  分かってる。メダカのはもっとしょうもない事に違いない。  それなのに、震えが止まらなかった。  平日の午前。  客のいない店内で、紫はレジ番をしていた。  ちょうど紫が店の出入り口に近寄った時、その扉が開かれた。 「いらっしゃいま……」 「久しぶり!」  頭に包帯を巻いたメダカがニッと笑った。 「いやぁ、ちょーっとコーナー攻めすぎてさ」  そして、手の甲には絆創膏(ばんそうこう)が貼られていた。  フラッシュバック。あの時、紫の炎は跡形もなく(つい)えた。  まだ傷口も塞がらないのに、痛くないふりをして義指(ぎし)をつけた。  バイオリンはウィーンのジュニアコンクールで優勝したことがあった。最後の望みだった。  なのに、バイオリンを弾くことが苦しくてたまらなかった。  水の中で息ができないように、もがき苦しんだ。  俺だけがこんな目にあって、俺だけがピアノを弾けない。  こんなに苦しいのは俺だけか?  誰でもいい。  俺と同じ苦しみを、味わってくれよ……! 「痛かったな」  気づけば、メダカの指に手を伸ばしていた。  触れそうになって、我に返る。  俺は嬉しいのか?  それだけは駄目だろ。   「あ……」  メダカが細い声を漏らす。 「あのね。スカルプが代わりに割れてくれて、ボクの爪は傷つかずに済んだんだ。なんか、ムラサキくんが守ってくれたみたいで。でもボク、本当はムラサキくんには……」  メダカの唇は、言葉を続けることをためらった。 「なに?」  紫が聞くと、メダカは陰りのあるような表情を笑顔で上塗りした。  そして、真っすぐに紫を見つめる。 「ねぇ。今日はこれ、やめに来たんだ」  メダカは割れたスカルプを紫に向けた。   「来月。十一月二日。本戦に残ってるコンクールがあるんだ」 「アン・カペル・ピアノコンクール……」  紫は、ふやけたスカルプを落としながら呟く。  メダカと出会ったあのホールで、この時期行われるコンクール。   「そう。紫くんが優勝した……」  紫は手を止めた。  しかし、驚くことでもなかった。  顔も名前も功績も、交通事故で小指を欠損したことも。大概の事は公表されている。  ただ、『紫真一』を知っていても、『紫真一』を覚えているヤツなんて、いないと思っていた。 「キミはいつまでこうしてるの?」  メダカの静かな声が、核心をつく。  紫はため息を吐き、作業に逃げようとした。 「熱情! 第三楽章!!」  突然メダカが叫んだ。  ずずっと鼻をすする音がして、紫はメダカの顔を覗き見た。 「しみったれてたボクに火をつけたのは、キミの熱情だったんだよ?」  メダカは丸い瞳に涙をため、わなわなと唇を震わせていた。 「急になに?」  と紫は笑って誤魔化す。 「急じゃない! ボクは、ずっと……!」  メダカは苦しそうに言葉を吐いた。  紫はさっきの態度が裏目に出たことを瞬時に悟る。 「分かったから。話聞くから」  紫がなだめるように言うと、メダカは不満げに顔をぶちゃむくれにした。 「動画だったのに、すごい衝撃だったんだ。ウマすぎる。十四歳とは思えない。超カッコ良かった! でも、キミを知った時にはバイオリンに転向してて」 「あぁ」 「バイオリンは生で聴いた」 「酷かっただろ」 「音が、死んでたよ」  メダカの辛辣(しんらつ)な一言が、心臓に深く刺さる。 「結果が出ないなら、俺に音楽は必要ない」 「じゃあ、なんでキミはあの時、あの場所にいたの? コンクール聴きに来てたんだよね?」  なんで?  俺は、何を期待していたんだっけ。 「アン・カペルで、ボクのピアノを聴いて。絶対優勝して、キミと同じ景色を見るから」  メダカは瞳を(たぎ)らせた。目を(そむ)けたくなるほど、激しい眼差し。 「無理だ」 「……え」 「その日は俺も、ネイルの大会がある」 「ネイル……。じ、じゃあ、仕方ないね」 「あぁ。仕方ない」  紫はまた、言い訳をした。  だらしなく伸びたメダカの爪を切ってやった。  パチン。と、爪の(はじ)ける音が鳴る。  短く、美しい奏者の爪。  なんとなく、寂しい気分になった。
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