②11月2日

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②11月2日

 ゆっくりと(まぶた)を上げる。  雨粒が窓を叩く音がうるさい。  今日は何の日だっけ。  紫はスマホの画面を傾けた。 「……寝坊!」  バーバリーのトレンチコートを羽織って傘を持つ。  急いで店を出ようとして、ありえない物が視界に入った。  茶トラ猫が紫を(にら)んでいた。  まさか。と血の気が引く。  そのまさかだ。  中身は楽譜。  表紙にはデカデカと『忘れるな』と、アホみたいな丸字で書かれている。 「キミと同じ景色を見るから」  あの眼差しが、(よみがえ)る  楽譜がなくても演奏はできる。けれど、一度暗譜(あんぷ)が飛んだメダカにとっては、致命的なんじゃないか?  メダカの演奏順は何番だ? 初めの方ならもう間に合わないかもしれない。  これを届けるなら、大会には出られない。それでも。  気づけばメダカのことしか考えられなかった。  あぁ、俺はこの時を待っていたんだ。  理由がほしかった。  今ならもう、迷わなくて済む。 「タクシー!」  紫は大声でタクシーを呼び止める。 「桜シンフォニーホールまで! 大急ぎで!」  F.リスト 超絶技巧練習曲集 第四番『マゼッパ』  今日のおやつ チョコ  ピアノは打楽器  ココ超アツいトコ!  楽譜には丸字のメモがいくつも記されていた。  鍵盤をぶっ叩くメダカがありありと浮かぶ。らしい曲だと思った。    頭の中で音が(つむ)がれる。  紫はメダカを思い浮かべ、楽譜の上でピアノを弾いた。  そう、ココ弾くの楽しいよな。  タクシーが急停止して、現実に引き戻される。  激しさを増した雨のせいで、渋滞を起こしていた。 「降ります!」  紫は(あわ)ただしく外へ飛び出した。  傘をさそうとして、凄まじい強風に(あお)られる。 「クソ! 邪魔なんだよ!」  紫は傘を投げ捨てた。  風が強く吹いている。紫を雨から守るものは何もない。  それでも、楽譜だけは濡れてはいけない。  宝物をコートの中に隠して、雨の中を必死に駆けた。  晩秋の冷たい雨が紫の体温を(うば)ってゆく。  それなのに、喉は燃えるように熱い。  息が、(はず)む。  白い立て看板の前を駆け抜けて、紫はホールへ飛び込んだ。  紫の全身から雨水が(したた)る。 「だ、大丈夫ですか!? 演奏しゃ……」  紫に声をかけた女は、首から関係者証をさげていた。そして、紫の指先に気付くと言葉を切った。 「これをメダカに、目高春斗に……! 楽譜が」  紫は息もたえだえに声を振り(しぼ)る。 「目高さんは一番なので、もうお渡しは……」  嘘だろ。ここまで来たんだぞ?  目高春斗が一番だって  運悪いな  目高春斗のリスト!  でも、こないだ暗譜飛んでたよな  辺りをよく見渡せば、明らかに人が多い。  そして、誰もがメダカの名前を呼んでいた。 『間もなく閉場します。ご観覧の方は――』  アナウンスを合図に、人の波が場内へ流れてゆく。  紫はバッグの持ち手を強く握りしめた。  そして、群衆の一員となり、紛れた。
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