③11月2日

1/1
前へ
/9ページ
次へ

③11月2日

 ホールは既に満席。紫は最後列で立ち見をすることとなった。  アナウンスが流れ、水を打ったように静けさが落ちる。  反して紫の心臓はドクドク鳴っていた。  燕尾服(えんびふく)を着たメダカが舞台に現れる。  メダカは一礼をして、椅子の高さを思いっきり引き上げた。  満足げに着席すると、爪を眺めてからニッと笑った。  鍵盤に、指をかける。  フォルテッシモ。  強烈な鳴りが響きわたる。  未曾有(みぞう)の大洪水のような衝撃。  はっや……!  凄まじい早弾きなのに、一音一音が美しい。  圧倒的な技術に裏付けられた異色の個性。  重厚な和音がとめどなく押し寄せ、切迫感(せっぱくかん)がホールを満たした。  メダカは笑顔を絶やさない。踊って、跳ねる。  スポットライトに照らされた爪が、水飛沫(みずしぶき)のようにキラキラと輝いた。  水の中で、どうやって息をするのか知っている。  自由奔放(ほんぽう)に泳ぐ魚。  誰も想像できない。その音の行く末を。  次はどう来る?  どんな音を聴かせてくれる?    メダカのピアノに、猫も杓子(しゃくし)(おぼ)れてしまう。  万来(ばんらい)拍手喝采(はくしゅかっさい)が起こった頃には、紫は涙を流していた。  心の穴を埋めるために縋った存在に、いつしか心を奪われていたと、気づいてしまったから。  けれど、メダカのピアノは紫を突き放した。  お前の爪にへばりついてなきゃ、お前は俺を見ないのか?  俺は、そんな所にはいたくない。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加