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③11月2日
ホールは既に満席。紫は最後列で立ち見をすることとなった。
アナウンスが流れ、水を打ったように静けさが落ちる。
反して紫の心臓はドクドク鳴っていた。
燕尾服を着たメダカが舞台に現れる。
メダカは一礼をして、椅子の高さを思いっきり引き上げた。
満足げに着席すると、爪を眺めてからニッと笑った。
鍵盤に、指をかける。
フォルテッシモ。
強烈な鳴りが響きわたる。
未曾有の大洪水のような衝撃。
はっや……!
凄まじい早弾きなのに、一音一音が美しい。
圧倒的な技術に裏付けられた異色の個性。
重厚な和音がとめどなく押し寄せ、切迫感がホールを満たした。
メダカは笑顔を絶やさない。踊って、跳ねる。
スポットライトに照らされた爪が、水飛沫のようにキラキラと輝いた。
水の中で、どうやって息をするのか知っている。
自由奔放に泳ぐ魚。
誰も想像できない。その音の行く末を。
次はどう来る?
どんな音を聴かせてくれる?
メダカのピアノに、猫も杓子も溺れてしまう。
万来の拍手喝采が起こった頃には、紫は涙を流していた。
心の穴を埋めるために縋った存在に、いつしか心を奪われていたと、気づいてしまったから。
けれど、メダカのピアノは紫を突き放した。
お前の爪にへばりついてなきゃ、お前は俺を見ないのか?
俺は、そんな所にはいたくない。
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