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2 ほんの一握りの…
あれは、叶絵が高校生になりたての頃、乗り換えで使っている大きな駅にある、イベントスペースの前での事だった。とある絵が叶絵の目に飛び込んできたのである。
最初に感じたのは、風だ。
縁側で親子が座っている…そんな絵だったのだが、描かれている軒下の風鈴を鳴らし、親子の間を吹き抜ける風。そして、暑い夏の気温。子供の笑い声。そんなものを、叶絵は一枚の絵から感じたのだ。
その時に、絵はただ綺麗なだけではなく、音や温度、感覚…そういうものまで伝えられるものなのだと知って、叶絵は感動したのを覚えている。
前から、絵を描くのは好きではあったけれど、自分もこんな絵が描いてみたい!そう強く思った叶絵は、本格的に絵の勉強を始めたのである。
真剣に純粋に、何かを追い求める時間というものは、楽しいものだ。
叶絵は、あっという間に夢中になる。
そして、努力の甲斐もあってとある美術大学に合格する事が出来た。
しかし…そこに行ってみると、楽しい…それだけではやっていかれない世界だったのだ。
そもそも、才能を見込まれて入学した者達が集う場所。
絵を描く技術はもちろん必要だが、それだけではない、何か。
それを持っている人間はほんの一握りしかいないのだ、ということを、叶絵は痛感してしまう。
技術を磨き、周りと比べ、比べられて…叶絵は段々とわからなくなってしまう。
自分には才能があるのだろうか?
何のために、絵を描いているのだろうか?
私は、どうして、絵を描きたいと思っていたのだろうか…?
とてもではないが、描くのが楽しい…なんて、思えなくなってしまった。
それどころか、自分はもしかして、大したことない人間なんじゃないだろうか…とまで、思ってしまう。
そんな時、自分が見た絵…夏を描いたあの絵が、毎年大手化粧品メーカーが主催しているコンクールで大賞を受賞した作品だったと知る。
そのコンクールは、若手の登竜門的な位置付けになっていることも…。
それを知ったところで、もうすでに、叶絵にはそれに応募をしてみよう…なんて、思うことすら出来なくなっていた。
知れば知るほど。描けば描くほど…現実が、重い。
それならば、いっそのこと。
叶絵は、大手の画材を扱っている会社の事務職員、という職を選んだ。
絵は、趣味。
描きたいときに、描きたいものを描く。
誰と比べられることも無いし…傷つくこともない。
例のコンクールも、応募なんてしなかった。
すれば、もしかしたら賞を取れるかも知れないと、そう思っていたかったのだ。
応募してしまえば、結果が出てしまう。逆にそれが怖い。
だったら、しないでいた方がいい。
自分の描く絵が認められ、それがきっかけで人生が変わる…そんな奇跡みたいな事、そうそう起こらない。起こらないから、奇跡というのだ。
そう思って生きていく方が、穏やかに、平穏に生きていかれる…今の叶絵は、そう思う…いや、思っていたいのだ。
臆病なのはわかっているけれど…。
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