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売れっ子芸能人は、忙殺した毎日を送っている。そんなことくらい素人の斗楽でも容易に想像がつくから、タイトなスケジュールの中、何とか作ってもらったこの時間は、後にも先にもない勝負の日だ。
浅見の所属する事務所、『アルタイルエンターテイメント株式会社』が入っているビルに到着し、斗楽は辺りを見渡して生唾を呑んだ。
赤坂が受付でアポを取っていることを告げると、二人はロビーで担当者を待っていた。
しばらくすると規則正しい靴音と共に、スーツ姿の男性がこちらへやって来るのが目に入る。
「お待たせ致しました、広報部の桜田です」
四十代前半くらいの男性が和かな表情で、斗楽達に声をかけてきた。
「初めまして、アヴェクトワ株式会社の赤坂です。本日はお忙しい中お時間いただき、ありがとうございます」
「去来川です。よろしくお願いします」
赤坂に続き、斗楽も名刺を桜田に渡した。
「では、事務所の方へご案内いたします、こちらへ」
桜田に連れられ二人はエレベーターへ乗り込んだ。
八階に到着し、桜田がカードリーダーのロック解除をするとオフィスのドアを開け、事務所の中へと案内された。
応接室へ案内された二人は、おかけになってお待ちくださいの言葉で、ソファにゆっくり腰を下ろした。
ここまでずっと緊張し過ぎて、口から心臓が出そうだ。余裕のない斗楽は、臀部をちょこんと座面に乗せたまま、伸びた背筋でガチガチに固まってしまった。
──ヤバい。緊張して吐きそうだ。
「去来川、そんなに緊張するな。自然にしてろ」
斗楽の緊張が伝わったのか、赤坂が小声で諌めてくる。
「は、はい。すいません」
「お前はいつもの様に振舞っていればいい。変に気負うと、逆効果だぞ」
学生の時から斗楽を知る赤坂に言われ、「そうでした」と、素直に受け止めると、斗楽は静かに深呼吸をした。
多少の力は抜けたものの、これから浅見に会えるかと思うと、体のこの強張りは簡単にきえてくれない。
膝の上で硬く閉じたこぶしを握り直し、ドアの方を凝視していると、ノックと同時に桜田が姿を現した。
「お待たせ致しました」
二人は再びソファーから立ち上がり、返事の代わりの一礼をした。
ゆっくり顔を上げた斗楽は、自分の喉が一瞬でがひくつくのを感じた。
桜田の後ろから浅見の姿が見え、覚悟はしていたのに脳が麻痺したように痺れ、頭の中が真っ白になってしまった。
「こちら浅見です」
桜田の紹介で浅見が軽く会釈をする。
「浅見薫です。よろしくお願いします」
「初めまして、赤坂と申します。いつもテレビでご活躍を拝見しております。本日はお会いできて光栄です」
名刺を取り出し、浅見の前に差し出しながら赤坂が先に挨拶をする。
続けて斗楽の番だったが、何でもないビジネスシーンなのに、極限の緊張が再び斗楽を襲い、名刺入れから一枚の紙を出すことに悪戦苦闘してしまった。
「は、初めまして。い、去来川と申します」
やっとの思いで名刺を取り出し、浅見の前に差し出したが、吐き出した声は明らかに上擦っている。
そんな斗楽をよそに、涼しい顔で浅見が名刺を受け取ると、「よろしく」とひと言だけ言ってソファに深く座った。
柔らかい口調は、ホテルで一緒に過ごした時に聞いた声と同じで、目の前にいる浅見にあの夜の浅見が重なる。
「さっそくですが、お電話でもお伝えした通り、今回浅見さんにお願いしたいのは雪村酒造さんの新商品CMの件です。先方はイメージにぴったりの浅見さんに是非お願いしたいと強いご要望なんですが。いかがでしょうか」
赤坂が資料をテーブルの上に並べながら、依頼の話を進めた。
「そうですね、日本酒は浅見のイメージに合うのはよく理解できます。ただですね、ちょうど今、別の企業からもオファーが来てるんです。それもお酒のCMなんですよ」
資料を手に、桜田が申し訳なさそうに言うと、すかさず赤坂が「もう、その企業さんとの話は具体的に進んでいるのでしょうか?」と尋ねた。
「いえ、まだこれから返事をするという段階です」
眉根を寄せる桜田を目にした斗楽は、このままでは断られてしまうと不安がよぎった。
──何とか雪村酒造の商品に興味を持ってもらわないと。
きっかけを導き出そうと懊悩していたが、すればするほど焦っていい言葉が浮かばない。斗楽の頭の中では、新商品のお酒を口にする浅見のコンテが出来上がっていると言うの──
「去来川さん」
突然浅見に名前を呼ばれ、斗楽は「は、はい」と声を上げ、バネが伸びたようにその場に勢いよく立ち上がっていた。
大声を出しながらとった斗楽の行動に、横に座っていた赤坂が唖然とし、桜田は目を見開いてこっちを見ている。
──しまった、またやらかしたっ!
鏡を見なくても、自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。真冬なのに汗が吹き出し、膝はガクガクと震えていた。
無様な自分をどう修復するか、考えあぐねいていると──
「プッ! あっははは」
突然浅見が声を荒げ、大笑いしだした。その姿を見て桜田が目だけではなく、口までポカンと開けて隣の浅見を見ている。
どうすればいいか戸惑っていると、見兼ねた赤坂が斗楽のスーツを引っ張って、座れと指示を出してきた。
慌てて腰を下ろすと、まだ笑いの余韻を含んだままの笑顔で浅見が片手で謝る素振りをしている。けれどまだ体は小刻みに震えて、笑うのが治らないようだ。
「いや、すいません。ちょっと去来川さんに聞きたくて」
「お、おれ──いえ、私にですか?」
失態を引きずる斗楽は、赤坂ではなく、自分が質問されたことに驚いた。
「そう。君は雪村酒造さんがどうして僕に依頼をしてきたんだと思う?」
窓から差し込む午前の光が浅見の横顔を照らし、斗楽を見つめる眸が少し、アンバーのように見える。墨を引いたような目尻が少し下がって見つめられると、斗楽の胸が一段と騒がしくなった。
浅見はもちろん、桜田も、斗楽がどんなことを言うのか注目している。赤坂に至っては、部下の発言次第ではこの案件は仕切り直し、若しくはキャンセルになるかもしれないのだから気が気じゃないはずだろう。
斗楽はすっと息を吐いて、落ち着けと自分に言い聞かせるように唇を引き締めた。
目の前に座っている浅見の顔を真正面から捉えると、キュッとこぶしを握り、反対に唇はふわっと解いて軽く瞬いた目で憧れの人を見つめ返した。
「雪村酒造さんは、今現在、蔵元の娘さんが後を継いで杜氏をされています。そしてこの方の手掛けた日本酒の第一号が今回、浅見さんにイメージキャラとして出演していただきたいCMのお酒なんです」
両手を膝の上で握りしめたまま、斗楽は話を続けた。
「少し前までの雪村酒造は、今の杜氏さんの弟さんが前蔵元の後を継いでいたんですが、病気で他界されてしまったんです。彼は亡くなる前に、若い人にも親しんでもらえる新しい日本酒を開発したい、そう言って酒造りに挑んでいました。ですが志半ばでこの世を去ってしまって……。彼の成し得なかった思いを、お姉さんが引きつごうと、一から酒造りを学び、何年もかけてやっと出来上がったのがこの日本酒なんです」
ひたむきに話している斗楽を、浅見や桜田がジッと聞いている。その様子を見ながら、斗楽は再び言葉を紡いだ。
「以前……雑誌のインタビューで浅見さんが、歌を歌わなくなった理由を尋ねられた時、『完全な絶望を味わった後に残るのは目の前の大きな壁だけ。それを乗り越えて向こう側に行ける人間になるために、今は自分から歌を取り上げた』って話を思い出したんです。今の杜氏さんも浅見さんと同じ様に未知の世界へ挑むため、想像以上のご苦労されて弟さんの死を乗り越え、そして夢を完成させたのではと私は思ったんです」
斗楽は大きく深呼吸をし、話を続けた。
「浅見さんが乗り越えなければいけないと思ったように、杜氏さんにも同じような信念を貫く高い志があり、そしてもがいているのかもしれない。それが『浅見薫』の大きな壁と同じじゃないかなって……」
握りしめていたこぶしを広げると、グラスに注がれたお酒が目の前にあるよう、恍惚に微笑んだ。
「それに、お酒って日常から口にする方もいるけど、何かのお祝いや、記念日、気持ちが昂った時なんかに親しい仲間や家族、恋人と一緒に飲むことがあると思うんです。大切な人と飲むと、味は一層美味しく感じる。これらは私の勝手な妄想ですけど、このお酒が出来上がった時、杜氏さんは弟さんと酌み交わし、完成を一緒に喜んだんじゃないかと。彼女と同じように、浅見さんが壁を乗り越えたのか、挑んでる途中なのかわかりません。もし、まだだったとしても、超えた時に味わう気持ちを伝えてくれ、それが見ている人に伝わるんじゃないかと思ってるんです」
言い終えるまで、浅見の眼差しは斗楽から離れず、もちろん桜田も黙ったままで聞いていた。
赤坂だけは心配そうに斗楽の横顔を見ていたが、それは最初だけだったように思える。
「この日本酒は、深くてほのかに甘く優しい味は、若い方や年配の方からも支持されている浅見さんの、大きくて温かなイメージそのものだと思いました。あ、あの、以上が浅見さんを望まれた雪村酒造さんの願いだと、私は考えます。長くなってしまい、申し訳ありませんでした」
夢中で話しきった斗楽は、深々と頭を下げると、ぎこちなくソファーに座った。
──ああ、またやってしまったかもしれない。ダラダラとひとりで喋りすぎた。
沈黙の中、斗楽は顔を伏せたまま前を向けずにいた。
浅見は気分を害したかもしれない。桜田も呆れてるかもしれない。
自分の発言は、非常識なものだったかも……しれない。
斗楽はここを出た後、赤坂や営業部に謝ることばかりを想像していた。
不意に浅見が立ち上がり、応接室の扉を開け部屋を出て行こうとした。
やはり怒らせてしまったのだ。真っ青になった斗楽はその場に立ち上がると、
「す、すいません浅見さん。生意気な事を……」と、去って行く背中に声をかけた。
斗楽の声で浅見が振り返ると、ゆっくりと口角を上げて微笑んでいる。
「桜田さん、雪村酒造の仕事引き受けるから。もう一つの依頼は断っといて」
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