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 雪村酒造の新商品CMが放送された。  浅見薫がアカペラで歌っているたった二十秒の映像が大反響し、ネットやSNSでも浅見薫が再び歌を歌うのではと騒がれていた。  一方、商品の日本酒も注目を浴び、これまでの年配にしか好まれないと言ったイメージが払拭され、若者でも気軽に口にすることができる、お酒のひとつとしての橋掛けとなっていた。  フレッシュな果実を連想させる香りと、白ワインを想起させる濃密な甘み。パチパチっと弾ける心地よい微発泡感もあって、若い人から年配の方と幅広い層に望まれる商品としてメディアにも取り上げられていた。 「先日雪村酒造さんから連絡があって、浅見薫を起用した宣伝効果で商品の売れ行きが大好評だそうだ」  日下部にミーティングルームへ蒐集(しゅうしゅう)された斗楽達は、嬉々とした表情で互いを労っていた。 「やったね、斗楽」  隣に座っている槇が、斗楽の耳元で称賛をしてくれた。  斗楽は控えめに微笑んで返すと、ご褒美のような案件だったなと、しみじみと噛み締めていた。 「今回の功労者は去来川だな。お前、頑張ったみたいだし。赤坂から聞いてるぞ、この調子で次の案件も頼んだからな」  褒めて伸ばすを指針とする日下部が微笑み、斗楽はその称賛を素直に受け止め、喜びを噛み締めていた。  世間に雪村酒造の新商品が浸透されてきた頃、CMで起用されていた浅見の曲が再リリースされ、オリコンランキングでもいきなりトップとなっていた。  現在の浅見の声で収録された曲が配信されると、ダウンロード数が一気に駆け上がり、テレビやラジオでも頻繁に流れ、世間を賑わせていた。    仕事を終えた斗楽は自動扉を抜けるとすぐイヤホンを耳に入れ、慣れた手つきでスマホを操作した。  耳から頭、身体へと順に浅見の声がゆっくり染み込んでいく。自然と目を閉じ、周りの景色を遮断するかのよう浅見薫の世界に浸っていた。  通勤中も聞いていたのに何度聞いても足りない。できるなら職場でも聴きたいけどそれはさすがにそれは怒られるだろう。  浸りすぎて斗楽は目の前の通行人にぶつかりそうになり、慌ててイヤホンを外して謝った。 「危ないな、目閉じたまま歩いたりしたら」  聞き覚えのある優しい声が聞こえ、斗楽が振り返ると、 「浅見さん!」 「久しぶりだな、元気だったか」  黒ぶち眼鏡の浅見が、斗楽のすぐ後ろに立っていた。 「あ、浅見さんどうし──ダ、ダメですよこんなとこにいちゃ」  浅見に会えて飛び上がるほど嬉しい反面、周りが気になり斗楽は慌てて警戒した。  変装なのか本当に見えなくてかけているのか、眼鏡くらいでは浅見のオーラは隠せないのにと、有名なことを無自覚な浅見の呑気さに、ほんの少し呆れ顔になってしまった。 「大丈夫だろ。それより今から飯行かないか。斗楽君は予定ある?」  チラチラと浅見を見つけた視線が向けられても、当の本人はお構いなしで、斗楽の答えを待っている。     正直、斗楽は今回のCMの件で浅見に恨まれていると思っていた。  歌いたくない、若しくは今は歌う時じゃない。他にも考えは浮かんだが、そこを押し切って浅見に歌う選択をさせてしまったから。  自分が打診した『歌』を歌う羽目になってしまった、浅見への後ろめたさが今、少し和らぎ、斗楽はホッと胸を撫で下ろした。 「予定は……ないです」  安心した途端、浅見から食事に誘われている現実を自覚し、体がじわっと熱くなってくる。 「何度も声かけたんだけどな」  街路樹の側に停めてある車へ向かいながら、浅見が拗ねたような顔をする。こんな顔も初めて見る顔で新鮮だ。    CM撮影に同行した時の浅見は、まるでそこに斗楽がいないかのよう、終始無言で仕事をこなしていた。笑顔などなく、淡々としてような、困惑したような表情だった。  全ては自分の強引さが招いたことかと、ずっと心の中にネガティヴがこびりついていた。それなのに、今、自分に微笑みかけてくれる人は、極上の笑みで食事に行こうと言ってくる。  浅見の意図がわからないまま、心は勝手に浮かれている。それでも、またこうやって会えただけでも嬉しい。 「す、すいません。イヤホンしてもんですから」 「ふーん、何聴いてたのかな」  イタズラする少年のような表情で、浅見が斗楽の顔を覗き込んでくる。 「……浅見さんの歌です」  わかっているくせに聞いてくる。芸能人はみんなこんな風に、一般人を翻弄してくるのかと変に勘繰ってしまった。 「へぇー、浅見薫か。いい歌だよなぁ」  不意に、斗楽の手からイヤホンを自分の片耳に入れ、流れてくる歌を聞いている。  突然奪われたことに一驚していると、周りから声が聞こえてきた。 「ね、あれ、浅見薫じゃない?」 「うそ、ホント? 本物?」  近くにいた女性数人が騒つき、浅見に気づいたのか、こちらへ近寄ってくる気配がした。 「浅見さん、早くここから離れた方が——」  慌てて斗楽が言っても、本人は慌てることなく、心配げな顔をする斗楽の頭をポンポンと優しく撫でると運転席に乗った。  浅見に気付いた女性達が、車に乗り込むのを見て小走りに追ってこようとしている。斗楽は隣に座る浅見に、視線でそのことを伝えるも、さあ、行こうかと、飄々としてエンジンをかけながら言っている。  車が加速すると、サイドミラーには落胆する女性の顔が映っていた。何だか少し気の毒に思える。   「斗楽君、食事なんだけどホテルの部屋でもいい?」  運転しながら浅見が、片手を斗楽の膝に乗せると、そこを軽く叩かれた。  突然浅見に触れられ、斗楽はビクッと全身を硬直させてしまった。    チラリと横目で確認した眼鏡のレンズには、青から黄色に変わった信号が映り、ゆっくり車は停車した。  火照る斗楽の顔を、ハンドルにもたれながら覗きんでくる浅見が、「斗楽君」と、名前を呟いてくる。  続きの言葉があるかと思い、待っていたけど、名前を呼んだっきりで真剣な眼差しだけが斗楽を捉えていた。  信号が青に変わり、車がゆっくり動きだす。  意味深に見える眼鏡越しの眸が、斗楽から離れていき、再び前の道路へと戻っていった。  勘違いしそうになるのは、視線や呼ばれた名前だけではなく、浅見の手がまだ斗楽の膝の上にあるからだ。    ——浅見さんは、いったい何を考えてるのだろう。  邪な感情を持たないよう、斗楽は自分に言い聞かせ、窓の外に目を向けた。  車のスピードが乗り、軽い振動に便乗するかのよう、膝に置かれた大きな手が斗楽の手を包んできた。  驚いて運転席を見ると、涼しい顔でハンドルを握っている。  そんな浅見の横顔を、斗楽は人見知りを覚えた子供の様にそっと見つめてみた。  余裕を匂わせる横顔に腹が立っても、斗楽の心は踊っている。それが自分だけなのだと、ちゃんと言い聞かせた。男のくせに、勘違いするなと。  握られた手を嬉しいと思う、浅ましい自分を諌めるように。
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