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もう始まったか……。
スーツの袖から腕時計を覗かせると、浅見薫は感嘆を漏らした。その吐息で曇った窓硝子へ目を向けると、タクシーから流れる夜景に疲弊した顔が重なって映っている。
毎日繰り返す日常。様々な人の人生を生きてはいても、自分の心は熱くならない。随分前に出来てしまった穴は、ポッカリと空いたままで塞がる気配はなく、今はその傷口が広がらないよう、静かに生きて行くだけ。
油断すると虚無感に支配される。だから今夜みたいに大勢の人間と話す機会は、怠惰な体のいいカンフル剤になるのかも知れない。
そう言いつつも、パーティの始まる時間はとっくに過ぎていて、遅刻の理由を前の仕事が押したことにする。いつもの浅見の常套句だった。
——まあ、今日は天候のせいだけどな……。
今夜の催しの主役は、これまで何度か起用してもらった映画監督の誕生パーティーだった。六十歳で還暦だから、きっと周りがお膳立てしたのだろう。
西条監督も赤いちゃんちゃんこ着るのか——? そんな想像までして笑いの感情を生み出し、会場に赴く勢いをつけようとした。だが、そんな乾いたは戯言は、溜息と共にすぐ断ち消えてしまう。
信号が赤になり、停車したところで窓硝子がまた曇り、浅見は何気なしに指先でキュッと擦ってみた。すると、道路脇の歩道をスーツ姿の男が全力疾走しているのが目に入った。
その速さに興味をもった浅見は、深く腰掛けていた体を起こすと外がよく見えるように身を乗り出した。
シートベルトを限界まで伸ばし、窓の外に目を凝らすと、スーツの男を目で追った。そして、彼が手にしている物が目に入ると思わずギョッとし、背筋が粟だった。
——首……! いや、違う、人間のよりデカい……。人形か?
足を止めることもせず、どこかに向かって走っているスーツの男が背負っている袋。その中身が透けて見え、白くぼうっと浮き上がったのが人の頭と錯覚した浅見は、ソレが人形と分かり、安堵するよう背もたれに沈んだ。
逢魔時を過ぎたこの時間、錯覚をしてしまったのは、今撮っている芝居がホラーものだからかもしれない。一瞬ビビってしまった自分に言い訳するよう、浅見はいやはやと首を横に振って苦笑を窓に映していた。
ユーフォリアホテルのロビーを抜け、一階で待機していたエレベーターに乗り込むとで三十三階のボタンを押した。
箱の中には自分以外に乗客はなく、何度目かの溜息を遠慮なく溢す。
ホテルの最上階にある、スカイバンケットルームから見る横浜の夜景が格別だと、マネージャーの八代が恍惚した顔で話していたのを思い出し、スケルトンの箱から階下を見下ろしてみた。
そびえ立つビル群の灯りに、煌めく観覧車が海面に映っている。その景色は確かに美しい。だが浅見の心は静かで、虚無だった。まるで心が感情を生み出すことを拒否し、淡々と命を紡いでいるような感覚。
欠落した心緒は、もう元に戻ることはないと自覚していた。
——俳優失格だな……。
瑠璃を摺ったような空を見上げながら、いつまでも記憶に居座る寂寞を感じていると、目的の場所へ到着を知らせる音が聞こえた。
静寂な廊下には等間隔に淡い光が点在し、革靴の爪先がその恩恵を受けて輝いている。制御されたようにカーペットを数メートル進むと、『皇』と記されている部屋の扉を開けた。
さっき歩いてきた廊下とは打って変わり、異世界に迷い込んだかと思うほど、中の様子は煌びやかだった。部屋の名前の通り、贅を尽くした装飾が溢れ、その場に似合う華やかな来賓達が談笑している。
上辺だけの付き合いを真っ当する人間は、何度見ても滑稽だなと、鼻で笑ってしまった。
遅れて来た浅見にいち早く気付いた一人の女性が、灯蛾のように近付いてくる気配を肌で感じた。感覚でわかってしまうのも慣れからなのが、いいんだか悪いんだか。
スラリと伸びた手足に、布の上からでも分かる完璧な筋肉。程よい厚みの胸板を持つ逆三角形の体は秀麗で、ギリシャ彫刻を思わせる。
上品なチャコールグレーのフォーマルスーツは躯体を艶やかに演出し、遠巻きに見つめる視線を集めていた。
しなやかな手で、ぱらりと額におちる前髪を優雅に後ろへかき上げ、ウェイターからグラスを受け取ると、浅見は乾いた喉を潤そうと唇を寄せた。だが喉の欲望を満たす前に、さっきの女性が行く手を阻むよう立ちはだかって来る。
男を誘うよう露出した赤いドレスは、虎視眈々と獲物を狙っている戦闘服なのだろう。
生憎そんなモノに興味のない浅見は、顔色ひとつ変えず女性をあしらうと、豪華絢爛な料理の奥にいる、見知った顔を見つけて挨拶の代わりに口角を少し上げた。
「相変わらず冷たい男だな、薫」
ようやく口に出来たシャンパンを飲み干し、空のグラスをテーブルに置くと、スキンヘッドに顎髭と言ったワイルドな風体の男の隣に並んだ。
「飲みの席だと顔を出すのが早いな、蓮」
浅見は二杯目のグラスを手にしながら、大友蓮に声をかけた。
「そりゃな。西条監督の誕生日なんだ、いい酒が出るに決まってる。にしてもお前な、美女が話しかけてもスルーなんてホント無愛想な男だよ、遅れて来たのは作戦か?」
「作戦? お前と一緒にするなよ。俺は女に興味はない。それに彼女達も誰でもいいんだ、そこそこ売れてる芸能人ならな」
深い溜息と共に冷ややかな言葉を吐き出し、浅見は長年の友人を呆れさせた。
「女に興味ないなら男か。趣旨変え——いや、お前はバイだもんな。ま、今時ゲイだの何だのは珍しくも何ともない。それに男との恋愛は楽だぞ。後腐れないし、ベタベタもされない。極めつけは妊娠の心配がない。これって独身主義には打って付けだろ」
「誰も男が好きとは言ってないだろ。それにお前のその発言、世の女性が聞いてたら刺されるぞ。そうでなくともお前は週刊誌の常連なんだからな」
辟易した顔で悪友を一瞥すると、浅見は側にいたウェイターから今度はワインを受け取り、口腔内で転がした。
「まあまあ。それより撮影は札幌だったんだろ。遅れたのは雪か? 今日の遅刻はヤラセじゃないよーだな」
「自然現象には逆らえないよな。一応遅れるかもと、監督には連絡を入れといたけどね。それより蓮、佐々木さんが困ってたぞ。大友さんから次の脚本が届かないってさ」
浅見の言葉に動揺を見せたものの、大友の顔はすぐに開き直っていた。
「ああ、あれな。今日送ろうと思ってたんだよ。俺ってばギリギリ追い込まれないと書けなくてさ、知ってるだろ」
短く切りそろえたあご髭を撫でながら、大友がニヤリとする。こうやって言い訳する脚本家はこいつぐらいだろうと、開いた口が塞がらない。
「小学生が夏休み終わりにする宿題と一緒だな」
軽口と一緒に、蓮の額を軽く叩いてやった。
「痛って——」
「あんまりプロデューサー困らせんなよ」
「なあなあ、ところで前に噂になってたモデルの子とはどうなったんだ?」
くっきり二重の瞳を厭らしく光らせ、大友がまだ冷やかしてくる。都合が悪くなると、すぐに話を変えてくる癖は一生治らないのだろう。
「誰のことだ?」
ワインで喉を潤しながら、浅見は首を横に傾げた。本当に覚えがない。
「おっ前は相変わらず薄情な男だな。結構きれいな子だったのにその子もダメか。じゃ、やっぱ男がいいのか? 俺が紹介してやろうか。お前好みの可愛いアイドル系男子を」
大友の言葉に反論を口にしかけたが、すぐに唇を左右に結ぶと、大友の肩をポンポンと軽く叩いた。
「だから今は興味ないんだよ……、誰かを好きになることにな」
「はぁー。お前の最近の演技が教科書通りなのが納得いくよ」
「どう言う意味だ」
図星を突かれ、あからさまにムッとしてしまった。
「お、ボロが出たな。ま、そんな顔すんな。何年の付き合いだと思ってる。画面越しでもわかるわ、上っ面だけの演技なのは。それに、俺はただ……ひとりでいるお前を心配してるだけだ。お前の苦しみを引き受けてくれる相手を探せってことだよ」
壁際に置いてあったソファーに腰掛け、長い脚を組みながら大友がやるせない顔を見せてくる。当の本人より傷付いた表情になっているのがおかしく思え、浅見は皿からマカロンを摘むと、大友の口に無理やり押し込んだ。
「ムグゥ、甘! お前、何するんだ——」
「わかってるから……」
慎ましい笑顔を見せて、浅見は横に座った。
「けど……もう、俺の心は何も感じない……」
浅見がポツリと溢した瞬間、舞台の方で歓声が沸くと、吐き出した本心は掻き消されてしまった。
「何か言ったか?」
口直しのビールを一口飲みながら、大友がチラリと浅見を見てくる。
「いや、別に。監督のとこに行って挨拶してくるよ」
眉根を寄せている大友をよそに、浅見は口元だけの笑みを残すと、賑やかな人山の方へと向かった。
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