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 夢のような日から数日経ち、通常運行の現実がやってくると、営業からの新規案件に追われながら、斗楽の日常は忙殺した毎日を迎えていた。  槇がクライアント先へ出向して不在の昼休み、斗楽は会社近くのオープンカフェでひとりまったりと過ごしていた。     初春を前に暖かくなってきた日差しの中、珈琲をひと口含み、手持ち無沙汰にスマホを触っては、意味なく指でスクロールさせてを繰り返している。  浅見が暮らすホテルで過ごしてから、二週間は経過していた。けれど浅見からは何も連絡がない。  斗楽から連絡してみようかとも思ったけれど、ドラマの撮影と、新曲の作成に追われている——らしい。  これらの情報は、本人からではなく、浅見推しの芸能リポーターからの情報なのが虚しい。   『俺と付き合わないか』  そう言ってくれた時、斗楽は自分の頬をつねった。夢ではないか、若しくは盛大なドッキリを仕掛けられているのかと馬鹿なことまで考えて。  ——日本を代表する俳優、アーティストの浅見薫が俺と? しかも男なのに。こんな話、誰が信じられる。言えば、きっと頭がおかしくなったと思われるのがオチだ。 「はぁ-」  行き交う車のエンジン音に負けないくらい、斗楽は大きな溜息を吐いてテーブルに突っ伏してしまった。 「でかい溜息だな、去来川」  急に名前を呼ばれ、慌てて体を起こすと目の前にはイケメン上司が立っていた。 「日下部さん!」  手に珈琲を持った日下部が「ここいいか?」と、斗楽の向かい側のテーブルを指差している。 「もちろんです」  斗楽はテーブルに置いていたスマホを片し、日下部の珈琲を置くスペースを空けた。 「こんな雑踏の中でも去来川の溜息は丸聞こえだったぞ、槇がいなくて寂しいのか。それとも何か悩んでるのか?」  整った顔立ちの日下部が笑顔で、斗楽の顔を覗き込んできた。いい男過ぎて眩しい。 「いえ……何でもないんです」 「恋人のことか……」  日下部の鋭い返答に、誰がみても正解だとわかってしまうほど斗楽は顔を真っ赤にしてしまった。 「去来川は素直だな、直ぐ顔に出る」 「ですね……」  照れ隠しに肩を竦めると、降参しましたという代わりに、肘で曲げた両手を顔の横で上げてみせた。 「うまくいってないのか?」  珈琲をひと口飲んだ後、日下部が尋ねてきた。 「いえ、そんなんじゃないんです。ただ付き合いが始まったばかりで、連絡したかったり顔が見たかったりとか言えなくて。とても仕事が忙しい人だから……」  言いながら反省した。これ以上は話せば愚痴になってしまう。睫毛を伏せていると、髪に触れられた感触で斗楽は顔を上げた。 「日下部さん……?」 「去来川は素直で一生懸命なところがいいんだ、正直に会いたいって相手に伝えてもいいと俺は思うけどね」  子供をなだめるよう、日下部が繰り返し斗楽の頭を撫でてくる。 「……ありがとう……ございます。俺、子供みたいですね。恥ずかしいな」  オープンカフェということもあって、すぐ側を歩行者が行き来し、その先には国道があって車の通行量も多い。いい大人の男が頭を撫でられ、慰められている状況は傍目にも恥ずかしい。  斗楽はもう平気ですと言う代わりに顔を上げて、とびきりの笑顔を作った。   「子供も大人も男も女も、凹んでいる時は『手当て』が効くんだ。誰かに背中や頭を撫でられると癒されないか?」 「確かに……。だから美容院でシャンプーしてもらう時、俺寝ちゃうんだ」 「わかるな。俺も寝そうになる」 「ですよね。俺、爆睡して起こされますもん、いつも」 「いつもかっ。ふっははは。去来川はやっぱり面白いな」  声をあげて笑う上司の珍しい姿を見て、斗楽は落ち込んでいたのが馬鹿らしくなって、日下部と一緒に腹の底から笑った。 「去来川はそうやって笑ってる方がいいな、らしいよ。だからかな、俺も癒された」  そう言った日下部の顔は、今まで見たことのないくらい優しい眼差しだった。  日下部の存在を改めて有難いと思い、「はい」と、元気よく返事をすることで、平気なことを伝えようとした。 「じゃ、去来川もからかったことだし、珈琲も飲んだから俺は先に戻るよ。午後から役員会議だ」  席を立ち、カップを近くのダストボックスに入れると、斗楽に軽く手を上げ日下部は会社へ戻って行った。  日下部の背中を見送りながら、「さぁ、凹んでないでがんばろう!」と、画面の中の浅見を眺めることで自分を鼓舞した。
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