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 八代(やしろ)が運転する車の後部座席から、浅見は流れる景色の中、斗楽の職場がこの辺りにあると気付き、窓硝子越しに外を眺めていた。  信号待ちになり、ふと、真横にあるカフェに目を向けると、男とテーブルを挟んで向き合って座る斗楽が目に入った。  窓を開けて声をかけたかったが、立場上それはできない。浅見は見つめるだけに留めておくと、不意に男が斗楽の頭を撫でていた。男は優しげな眼差しで、下を向く斗楽を見つめている。  斗楽が顔を上げると、二人は楽しげに笑顔を交わしあっている。ちょうどその時信号が青に変わり、車は加速して二人の姿は後ろへと遠ざかって行く。  道路が工事中で段差があったのか、軽い振動が浅見の体を揺らす。そのはずみで頭が窓硝子に当たり、痛みが生じた。けれど、ぶつけたところではなく、胸に痛みを感じている。まるで注射針をそこに刺したかのような。  八代がルームミラー越しに話しかけてきたが、浅見の顔は外へ向いたままで、何の反応も見せない。諦め顔になる八代が視線を正面に戻すと、今度は浅見が彼を呼んだ。 「悪い、銀座に寄ってもらえるかな? 打ち合わせまで時間あるよな」 「銀座ですか? そうですね、一時間くらいなら大丈夫ですよ」 「でさ、アクセサリーの店、どっか知らないか?」 「アクセサリー……ですか」  八代は二十代後半で浅見より若く、今時の青年で身なりもいつも洒落ていた。きっと流行りの物も把握しているだろうと、浅見は頼ってみた。 「そうですね……、『バルドル』がいいかなぁ。浅見さん、シンプルだけどおしゃれな方がいいですか? それとも派手な感じとか?」  銀座方向へハンドルを切り替え、八代が首を捻って思い巡らしている。 「……シンプルでおしゃれな方がいいかな」 「わかりました、では『バルドル』へ向かいます。俺の最近のイチオシのブランドです」 「頼むよ、悪いな」 「いえ、大丈夫です」    後部座席で車窓を眺めながら、浅見はこの若いマネージャーに感心していた。今の会話でもそうだが、自分で使うのか、それとも誰かに買うのだとか余計な詮索をしてこない。プライベートでの浅見の交友関係にも煩く言ってこないし、勘もいい。  見た目は普通のサラリーマンでも、八代のマネジメント能力は、スケジュール管理、芸能人が持つイメージやブランドの管理、体調管理など全てに長けていて抜かりがない。  そんな八代が勧めるものに間違いないと、浅見は斗楽が喜ぶ顔を想像し、心地いい振動に揺られていた。  恋人ができたとはいえ、相手が芸能人だと普通の恋人同士のように頻繁に会える訳もなく、斗楽は退屈な休日を過ごしていた。 「買い物も行った、掃除も済んだ。時間もある。今日は久しぶりに和食でも作るか」  ひとり言で自分を盛り上げ、斗楽はエプロンを付けた。  幼い頃から母親の側で料理のまねごとをしていた斗楽にとって、自炊は日常で楽しい趣味のひとつだった。 「炊き込みご飯、最近作ってないしな。送ってもらった筍で作るか。えんどう豆と一緒に」  ひとりだけの会話をしながら、斗楽は手際よく料理を進めていた。    ——こんなまったりした週末もたまにはいいか。  先週の休日は槙お勧めの映画を見に行った。浅見との付き合いが始まっても斗楽の日常は変わらず、寂しさを感じていた斗楽に槙からの誘いは降って湧いた僥倖(ぎょうこう)だった。お陰で寂しい週末を過ごさなくて済んだのだ。  テーブルに料理を並べ、「うん、美味そう」と、手を腰に当て自画自賛していると、テレビから夕方のニュースのを知らせる音楽が聞こえてきた。時計を見ると六時をまわっている。  そのまま視線をベランダに流すと、取り込み忘れていた洗濯物に気付いた。  ベランダに出て乾いた服を取り込みながら、見慣れた夕方の景色に目を向けた。  三階建てからの見晴らしでも、眼下にひしめく家の屋根が淡く橙色に染まっていく様は美しい眺めだ。  築年数が少し古めの趣きあるアパートに住み始めたのは、会社に入社する前だった。  セキュリティなどはなく、エレベーターに防犯カメラがあるくらいだったが、斗楽はこのアパートが気に入っていた。  レトロな和モダンの外観は、白と黒のセパレートで外壁が塗られていて、建物を横から見ると昔の蔵っぽく見える。  部屋の中も、八畳一間にベッドと机が効率よく設置され、後は小さなキッチンとわずかなスペース。斗楽にとっては住み慣れた小さな城で、今日みたいな晴れた日の夕焼けは、ベランダから見える景色の中でも特にお気に入りだった。  料理を夢中で作っている間、浅見に会えない寂しさは紛れ、食事も堪能して後片付けをしていると、スマホからメッセージを告げる音色が水音に紛れて聞こえた。  タオルで手を拭きスマホを手にした斗楽は、自分の頭の中で打ち上げ花火が上がったような衝撃を受けた。 『家にいる? 今からそっちに行ってもいいか』  浅見からのメッセージに体が打ち震え、部屋の真ん中で呆然と立ち尽くしていた。  ——浅見さんが……来る? ここへ? 「ど、どうしよう。えっと、片付けないと——いや、先に返信だっ」  たった一つのメッセージで平常心が粉砕した斗楽は、動揺した指先で何とか在宅を伝えると、恍惚としたままスマホを握り締めていた。 「あ、ダメだ。早く片付けないと」  斗楽は我に返り、キッチンに向かうと残った食器を洗い、机を拭いたりとわずかな時間を忙しなく動き回っていた。  インターホンが鳴ってドアを開けると、いつもの黒ぶち眼鏡の浅見がちょっと不機嫌そうな顔して立っている。斗楽はその表情に不安を覚え、「こんばんは」と、震える声で浅見を出迎えた。 「だめだろ、斗楽君」  玄関へ入るなり斗楽を見下ろす浅見が、眼鏡の奥の目を光らせてくる。  なぜ浅見が不機嫌なのかわからず、斗楽が青ざめていると、 「今、俺だから良かったけど変な奴だったらどうするんだ、確認せずドアを開けたりして」 「え、す、すいません。でも俺、男だし……」 「今の世の中、男でも危ないんだ。斗楽君みたいな可愛い系男子を喰いたいって輩は大勢いいるんだ、もっと警戒しないと」  そう言い終えると、浅見の顔は優しい眼差しに変わり、斗楽の頭をいつものように撫でてくれる。 「はい……」  心配される事に喜びを感じ、浅見の手の余韻が残る自分の髪に触れ、特別感に浸っていた。すると浅見が、いい匂いがするなと、鼻で空気を取り込んでいる。 「さっき夕食が終わったばかりだった——あ、浅見さん食事は?」 「いや、まだだよ。斗楽君が何か食わしてくれるのか」 「今日炊き込みご飯作ったんです。もうすぐ九時になるけど、もしよかったら食べませんか?」  エプロン姿でキッチンに向かいながら、斗楽が振り返り尋ねた。 「炊き込みご飯か、いいな食べるよ」  「じゃ、直ぐに用意します。狭いけど、座って待っててください」  浅見の来訪、手料理を食べてもらうこと。初めて尽くしの状況に浮かれた斗楽は、カフェで日下部に言われたことを思い出し、笑顔でもてなそうと意気揚々と料理を準備した。
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