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 パーティーも終盤になった頃、喫煙ルームへ向かうため浅見は一旦会場の外へ出た。  バンケットルームのある最上階にも喫煙所はあったが、遠目でも分かるほどそこは煙が充満していた。さすが世界の監督、西条の誕生日ともなれば、招かれた客層も半端ない。  浅見もそこそこ名の通った役者だと自負していたが、煙草を片手に屯っているのは超がつくほどの有名人ばかりだった。彼らからすればまだヒヨッコの浅見があの輪の中に入ると、格好の餌食になるのがわかる。  仕事の話しや女性関係など、痛くもない腹を探られるのはごめんだ。  浅見は彼らに気付かれないよう、階下にある喫煙所を目指すことにした。  非常階段に革靴の音を響かせ、ゆっくりと孤独感を味わう。エレベーターを避けたのは、同業者の酔客に絡まれたくない。この理由だけだ。  基本、ひとりでいることが楽で好きだけど、大友とはなぜか連むことが多い。  昔からの知り合いで、気が合ったせいもあるけれど、一緒にいても何となく気が楽で、いつの間にか腐れ縁な存在になっていた。  業界の知り合いという枠を取っ払い、友人関係まで築き上げるほどに。  だからか、元々持っている勘の良さも加わり、浅見が取り繕っても大友にだけは色々と見透かされてしまう。それがか口惜しい。 「この辺りでいいか」  階数の確認もせず、フロアに出るための重い非常扉に手をかけた。  踏み込んだ廊下には最上階とは違う、ごく平凡なカーペットが敷かれてある。照明もさっきいた廊下より人の顔がよく見える、暖色の灯りがフロアを照らし、目的の場所を容易に見つけることが出来た。  壁に掲示されてある案内板を見ると、ここが三十階なんだとわかった。  小規模ではあるが、この階にもバンケットルームがあり、喫煙所はその奥にある。  師走ということもあり、ピッタリ閉まった扉の向こうからは賑やかな声が溢れ、中の様子が盛況なのが伝わる。  浅見は胸ポケットから取り出した黒縁眼鏡をかけながら、『(ゆずりは)』と書かれた扉の前を横切り、喫煙所を目指し歩いた。  幸いにもフロアに客の姿はなく、スタッフにもすれ違わない。それでも存在が見つかり、騒ぎになるのは避けたいから、無意識に早足で進もうとした。だが、その足が急ブレーキをかけたように、本能が強制的に止めてしまった。  止まって確かめたい——、という方が正しいのかも知れない。  ——あれは何を……しているんだ。  バンケットルームの真横、少しばかり仄暗くなって凹んでいる場所は、従業員が食事を運んだりするための通路と思われた。現に二台のワゴンが置かれ、その上には予備の食器なのか、様々な大きさの皿やカトラリーが見える。ただワゴンの側にいるのが、スタッフではなくスーツ姿の男で、その男の動きが浅見の足を止めた原因だった。  面妖な動きをしているスーツの男——いや、正確には男か女か分からない。何故なら体の上にあるべき顔が、通常より二倍ほど大きかったのだ。 「お面……」  浅見は思わず声を漏らし、ふと、タクシーから見かけた異様な光景を思い出した。  視線の先にいる『お面』は、黒々とした前髪をくるりと半円させたものが額に張り付き、色白でおちょぼ口な無表情の少女の顔をしていた。  そんな頭を乗っけた躯体は、服装からして男だろうと思えたものの、体付きは小柄な体型をし、女性と言っても通りそうなほど華奢な線をしている。  宵闇の中で見た異形なモノが目の前にいて、喜劇を見るような高揚感が湧き上がってくる。そんな気持ちにさせるお面の人間は、さっきからずっと奇妙な動きをしていた。それが更に浅見の興味を惹きつけ、動けなくさせていたのだ。  紺色のビジネススーツを纏った彼(男と判断)は、揃えた両肘を曲げたまま顔の側まで持っていき、それを上げたり下げたりしてまるで盆踊りでもしてるように見える。そうかと思えば、漫才師がお囃子に合わせて舞台上に出てくるような動作もしていた。  滑稽(こっけい)な動きをする『お面』の行動に目を奪われ、笑いが込み上げるのを必死で我慢し、胃の辺りがピクピクしているのがわかる。  こんな感情が自分に生まれるのも、久しぶりだった。  視線に気づいたのか、『お面』は盆踊り状態のまま動きを止め、そのままの姿勢で浅見の方をゆっくりと振り返った。その仕草がスローモーションのように見え、堪えていた笑いが我慢できず、浅見は肩を振るわせて笑ってしまった。  だがお面男の方はたまったもんじゃない。なぜなら、目の前にいるのは、世の中のほとんどの人間が知る、俊傑を偶像化したような人間なのだから。  お面は浅見を直視し、上げた両腕が固定されたまま固まっている。そして正体に気付いたのか、慌てて手と足をバタつかせ、その場から逃げ出そうとした。だが、狭い視野に、明らかな緊張と驚きが拍車をかけ、彼の足はもつれ、勢いよく後ろに転倒してしまった。 「うわぁ!」  驚きのあまり、発した声はやはり『男』の声だった。  尻餅をついた状態の彼が、お面を被ったままなのを忘れているのか、慌てて両手で頭を抱えようとした——が、ハタッと動きが止まった。 『今、自分は中国人の少女の頭をしている』などと、浅見は勝手に彼の心の声を代弁していた。 彼がそのことに気付いた——。と、読み取れるほど、見事にその場にへたり込み、顔を右往左往させている。その度にお面が小刻みに揺れ、芸人顔負けの天然さに我慢できなくなり、「ぶっ! あっはっはっ」と声を張り上げて浅見は爆笑してしまった。  二人だけしかいないフロアに浅見の笑い声だけが響き、お面の彼はなぜか、大きな頭をくるくると振って辺りを見渡している。その姿は声の主を探しているように見えた。 「君、大丈夫?」  笑いすぎて出た涙を拭うため、浅見は眼鏡を外しながら声をかけた。だが、お面男はまだ、自分の背後や、会場の扉が開いて人が出て来ないかを警戒している雰囲気だった。 「ほら」  彼の行動の意味を深く考えず、浅見はお面の彼に手を差し伸べ、フロアに座り込んだままの体を起こそうとした。  目の前に差し出された長い指先をまじまじと見つめるお面の彼は、差し出された手の理由が分からないのか、浅見の顔と手を交互に見上げている。  焦れた浅見は、彼の躊躇いを払拭するよう手首を掴むと、ぐいっと華奢な体を引き起こした。    その時、賑やかな女性の声が近付き、扉が開かれる気配を感じた。  まずい——そう思った瞬間、今度は浅見の腕がお面の彼に掴まれると、ワゴンの奥にあったパーテーションの裏に体を押し込められてしまった。 「えっ? な、何?」  お面の彼にされるがまま、浅見は通路の陰に身を隠す形になった。 「斗楽(とら)ー、頑張ってる?」  浅見の体が見えなくなった同じタイミングで会場の扉が開かれ、そこから出てきた女性がお面の彼に声をかけている。 「(まき)ちゃん。うん、まぁまぁ……かな」  彼はおざなりな返事し、現れたショートカットの美人から浅見が見えないよう、ワゴンの前に立ちはだかって会話をしている。 「でも災難だったね、朝日(あさひ)がインフルになってさ。本当はあの子がそのお面被らなきゃだったのにね」  槇と呼ばれた女性は腕を組みながら、怒りにも取れるような声でお面の彼を労っている。 「うん。でも俺は朝日の教育係だし。代役しろって言われたら断れないから」  お面の彼は、ハリボテの頭をポリポリと掻いておどけて見せている。その姿を槇と言う女性がくすりと笑い、 「斗楽らしいね。何か手伝うことあったら言ってよね。じゃ、この後の出番、頑張ってよ。会社創立五十周年の忘年会が盛り上がるかどうかは、アシスタントさんに掛かってるんだから」  激励しているのか、冷やかしているのか。女性は手をひらひらとさせ、その場を去って行った。  パーテーションの陰で、二人のやり取りを聞いていた浅見は、お面の彼の行動を理解した。  自分が『浅見』だとバレないよう、隠してくれたのだ。わざと盾になり、何でもないフリで浅見の存在を隠してくれた。  ——それを瞬時に考えたのか。  彼の背中を隙間から眺め、浅見は「トラ」と呼ばれていた小さな背中の彼に感心した。  芸能人がいると分かれば、やれ写真撮ってくれだの、握手してくれだのと普通なら言い兼ねない。なのにお面の彼はそう言う行動は一切せず、尚且つ芸能人の浅見を隠してくれた。  今も、さっきの女性の姿が見えなくなったのを確認するよう、お面の彼の視線はフロアの先に向いている。そして誰もいなくなると、慌ててパーテーションを取っ払ってくれた。 「すいません、すいません。ごめんなさい。こんなとこに押し込んでしまって」  重そうなお面の頭のままで、何度も何度も頭を下げ、謝り続けている。その姿を凝視していた浅見は、ツイっと彼に近付くと、お面の両頬を持ってスポッと顔から外した。 「うわぁっ」  錐体視細胞が追いつかないのか、お面の彼——斗楽と呼ばれた男が、双眸を固く閉じている。  しんと静まり返った空間、どちらからも声を発することなく、斗楽が恐る恐る眸を開いた。  次第に明順応(めいじゅんのう)できたのか、斗楽が目の前にいる浅見を見て瞠目している。  焦点を合わすよう、何度も両目を(しばた)かせ、食い入るように浅見を見上げていた。  お面を床に置いた浅見は、対抗するよう斗楽を見返した。  二人はしばし動きを止め、互いに見つめ合いながら無言になってしまった。  お面の中から現れたのは、丸い瞳が印象的な、あどけない顔。やわらそうな感触を想像させる黒髪は、癖っ毛なのか、後頭部の辺りがふわふわし、前髪にも同じように毛先だけが湾曲になり、お面を被っていたせいか、そこが乱れ、額を覗かせている。  着ているスーツで男だと分かるものの、スカートでも履かせれば、女性だと言っても通用しそうな、妙に可愛らしい顔をしてた。  浅見は観察するようにジッと見つめていた。明らかに彼が困っているのを知りながら、凝視するのをやめずにいると、その効果なのか、陶器を思わせる、つるんとした頬の一番高い所へ朱色がじわりと浮かび上がってきた。  可愛い……。浅見は素直にそう思った。相手は男だけど。  恥ずかしそうに顔を赤らめている斗楽が「あ、あの俺……」と、口篭って震えている。  丸い目をあたふたさせているその姿が、成人した男性とは思えない相好で、浅見の劣情がじわりと煽られた。 「君、何してたの。その格好って忘年会の余興?」  浅見が尋ねると、俯き加減だった斗楽の顔がゆっくりと持ち上がった。 「え……えっと、えっと……」  浅見の問いかけにしどろもどろしている。またその表情が微笑ましく、助け舟を出すよう「このお面、よく見ると愛嬌あるな」と、床に置いた少女を見ながら硬直している斗楽に言った。 「あ、は、はい! 忘年会の余興でありますっ!」  軍隊のように挙手の敬礼をしてみせ、斗楽が大きな声で浅見の質問をなぞった。その姿がまたツボにハマった浅見が、腹部を両手で抱えながらクッククと全身を震わせ、我慢できずにまた爆笑した。 「衛兵殿、ご苦労様です」  笑い涙を拭いながら、浅見もふざけて返してみた。  浅見から返ってきたセリフで、自分の放った言葉がおかしかったのかと、斗楽の頬の色は耳や首にまで紅く染め上げていった。 「す、すいませんっ! お、俺おかしなこと言って——」  慌ててまた体を折り曲げ、残像が残るくらい勢いよく頭を下げている。  丸い後頭部がいつまでも起き上がって来ないことに、浅見は笑いを噛み締めながら斗楽の側に近付いた。  血が下がるんじゃないかと思うほど、下げた薄い肩に手を置くと、そのまま体を起こしてやった。  お互いの顔を真正面に見える位置まで持ってくると、浅見は丸い輪郭に触れ、指を横にスライドさせて、斗楽の顎を持つと顔をクイっと上に向けた。 「謝ることか?」  口角を緩めながら、斗楽の額の上で跳ねた髪を指で整えてやる。指先は次に斗楽の頬へと行き先を変え、頬をそっと撫であげた。  予想もしない浅見の行動に斗楽だけでなく、なぜか浅見自信も驚いてしまった。  無意識にしてしまった自分の行動が分からない。それでも吸い付くような肌から手を離すことが出来ず、ゆっくりと指の腹で堪能している。親指と人差し指は勝手に頬の肉を摘んで、柔らかさを味わっていた。 「あっ……あの……」  状況が分からない、斗楽がようやく声を漏らした。 「あ、ああごめん。つい」  つい——と言ってはみたが、浅見の指は接着剤で張り付いたようにまだ離れない。だがそれも、パーテーションの向こうからする人の気配で、呆気なく溶けてしまった。 「じゃあな、斗楽君」  浅見は声をかけると、早々にその場を去って行った。  ひとり残された斗楽は力が抜け、またへたり込んでしまう。 「何……何だったんだ?」  浅見に触れられた頬に手を当て、さっきまでの出来事が夢じゃなかったのかと確かめるよう、自分で自分の頬をつねってみた。 「いたい……ってことは夢じゃない、浅見薫がさっきまでここにいたんだ……」  夢のようなひと時を思い出し、斗楽は他人が見れば引くくらい、喜色満面となってニヤついた。そして不意に浅見に自分の名前を呼ばれたことを思い出し、心臓が体から飛び出すほど躍らせた。 「あっ、これかー」  首から下げたIDカードに気付き、再び斗楽は顔を思いっきり緩めてしまった。  憧れの浅見薫が自分の名前を呼んだ。それがどれだけ嬉しいことか。  今いるのがホテルじゃなく、どこかの海岸なら、海に向かって思いっきり大声でこの喜びを叫びたい。    ——浅見薫が大好きだー!  子供の時に浅見を知って、浅見を好きになり、浅見薫のファンを今でも続投している。斗楽の中で『浅見薫』は特別な存在だから。  フワフワと雲の上にでも乗ってる、そんな夢見心地の感覚に斗楽はひとり酔いしれていた。  浅見が喫煙所に着くと、眉間にシワを刻み、煙草の吸い口を噛み締めている大友に睨まれた。 「遅い、薫。何処ほっつき歩いてたんだ?」  この階の喫煙所に来ているとメールで知らせていた浅見は、大友の存在をすっかり忘れ、お面の——いや、斗楽とのやり取りを楽しんでいた。  すっかり待ちくたびれて拗ねている大友の煙草に、機嫌をとるよう火を付けてやる。 「誰も待っててくれなんて言ってないけどな」  冷たく大友をあしらい、自分も紫煙を燻らせた。 「かわいくないな、薫君は」 「男にかわいいなんて思われたくもないよ」 「はいはい、そうですね。ってか、俺らは若いモンからしたら、平成のおじさんってバカにされて終わりだぞ」 「若いモンか……」  そう呟き、浅見は斗楽のことを思い出した。同時に彼の滑稽な姿が蘇り、浅見は一人で肩を揺らし、思い出し笑いをしてしまった。  ようやく笑いが鎮まると、横顔に視線を感じて大友に目を向けた。  大友の目がこれでもかと言うほど、大きく見開かれている。それもそのはず、ここ数年、浅見の相好が笑いで崩れたことはなかったのだから。寧ろ、笑うことを排除しているんじゃないか──、なんて大友から指摘を受けたこともあった。 「珍しいな、お前が笑って、しかも思い出し笑いなんて、よほどの愉快なことがないとそこまで崩さないよな」  貴重な笑顔の原因を探るよう、大友が顔を覗き込んでくる。 「愉快?」 「ああ、なんか楽しそうだな。今のお前」  指摘されたことに自覚がなかった。でもすぐその理由に行き着く。  浅見はタクシーから見た、トラウマになりそうな光景を脳裏に浮かべた。  怪しげな首を担ぎ、夜道を全力疾走する。無表情の中華お面がビニール袋の中で揺れ、その姿にいい大人が刹那に恐怖を感じた。でもその後に見た結末は、意表をつかれるほど心を和ませてくれたものだった。  斗楽の持つ、ほんわかした空気感が、自分の中で錆びついて開かない扉に、とろりと潤滑剤を注がれたような気がする。 「柔らかいものって癒されるんだなって思ってね」 「はぁ? なんだそれ」  自分の指を見つめながら不釣り合いなセリフを口にした浅見は、横顔に刺さる大友の怪訝な雰囲気を無視し、斗楽とのひと時を噛み締めていた。
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