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「すいませんっした!」  月曜の朝、出勤したばかりの斗楽を待っていたのは、すっかり体調を回復させた松田(まつだ)朝日(あさひ)だった。  長身の体を縮こませ、全身で反省を見せてくる姿に、斗楽は自分の目の高さにある朝日の頭をポンポンと軽く叩いた。 「はよ。朝日、もう体調はいいのか?」  挨拶と一緒に後輩を労うと、人懐っこい目で見上げてくる。  この視線に弱いのは斗楽だけではなく、社内の女性陣にも効果覿面だった。  スッキリ二重に少し茶色に染めた短髪は、スーツを纏うと最強の企業戦士に見える。  それでもつい二年前まで大学生だった愛らしさの余韻をそこかしこに溢し、それが無自覚なのだから、被害者は斗楽の知る限り三人はいると踏んでいた。 「はい、もう大丈夫です。ご心配かけました」  そう言って、もう一度朝日が深々と一礼し、「斗楽先輩、俺何でもしますから! 挽回します」と、声明を部署内に響かせている。 「な、何だよ、唐突に」 「だって、忘年会……大変だったんでしょう?」  人懐っこい目が、今度は主人に置いていかれた子犬を思わせてくる。その顔を見ながら、斗楽はふわりと頬を緩め、「全然、余裕」と、身長差を補うように腕を目一杯伸ばし、茶色みがかった髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。 「でも——」 「平気だって。それに俺が新人だった時は、他の同期がやってくれたし。だから今回初めて経験させて貰ってちょうどよかったよ」  カラッとした口調で朝日の肩をポンっと軽く叩き、斗楽は笑顔を残し自席に着いてパソコンを開いた。 「でも、普段から俺先輩に頼りまくってますよ。斗楽先輩いないとミスしまくりだし」  甘えん坊のような顔をした朝日が、斗楽とパソコンの間に割って入ってきた。 「何言ってんだ。朝日はそんなデカいミスしたことないぞ」 「それでも迷惑はかけてます。だから何かお礼させてください」 「えー、そんなのいいよ。その分お前が美味いもん食って元気になれ」  斗楽は資料を取り出すと、メールボックスを開いて顧客からの回答を確認していた。 「ダメです! それじゃ俺の気がすみません。何かお礼をさせてください」  再び画面を遮られ、朝日を見据えた。ここは言う通りにして頷かないと、仕事にならない。斗楽は軽く溜息を吐いて、「じゃあ、昼飯でもごちそうになろうかな」と、妥協案を出した。 「はい、了解です! でも昼飯ですか? どうせなら晩飯も奢らせてください」 「いやそこまでは……。ほら、いつものあそこ。あの定食屋に行きたい。今日寝坊して弁当作る時間なかったからさ」  斗楽は好物のサバ味噌定食を思い出し、朝日の気持ちを汲んだ。 「あ、あの定食屋ですよね。いいですね、行きましょう! でも斗楽先輩が寝坊なんて珍しいっすね」 「あ、ああ。まあな」  忘年会から一週間が経つと言うのに、浅見薫と出会ったことが忘れられず、斗楽は興奮して眠れない日々を重ねていた。  目を閉じても『リアル浅見薫』はとてつもない迫力で、しかもその浅見が自分の名前を呼び、微笑みかけてくれたのだ。  少し低めの、甘い声。煩悩を刺激してくるその音が、直接耳に入ってきて斗楽の体をとことん蕩けさす。  触れられた場所がまだ熱を持っているように熱い。 「で、何で眠れなかったんですか?」 「え……っと、今ハマってる小説があって。夜遅くまで読んでたからかな。さぁ、もう就業時間だ、お前も席に戻って仕事しろ」 「はいっ! じゃ、斗楽先輩、昼休みに」  跳ねるように自席へ向かう朝日の後ろ姿を見送り、キーボードに手を添えた。  言いたくないな。あの日あった出来事はは、大切な宝物だから……。
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