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 斗楽の勤める会社は、横浜駅近くにある『アヴェクトワ株式会社』という広告代理店で、あらゆるジャンルの広告を請け負っている会社だった。  斗楽は大学卒業後、ここでプランナースタッフとして勤務している。現在も数件のクライアントからの広告を担当するチームの一員として、忙殺した日々に追われていた。 「斗楽先輩、ホントに昼飯だけでいいんっすか?」  会社近くのレトロな定食屋に、斗楽は朝日と向かい合って座っていた。  この店の定食もおかずも絶品で、昼休みには午後からの活力を養うため、近所の会社員達はこぞってこの店に押し寄せる。なので店内が満席で、好物を堪能出来ない事はこれまで何回もあった。だが、今日は運がいい。  早めに腹を満たしたリーマングループが、既に会計をするところだった。 「もちろん、昼飯で十分だ。ここのサバ味噌定食にありつけるなんて奇跡と言っても過言じゃない。めちゃ久しぶりなんだ。ありがとな、朝日」 「そう言ってもらえて嬉しいんっすけど、なんか申し訳ないです。先輩がやった事を考えると……」  オーダーを取りに来たスタッフがいなくなると朝日が、テーブルに目を落としたままでポツリと言う。 「まだ言ってるのか。病気だったんだから仕方ないだろ。もう終わったことは気にすんな」 「でも……」 「でもは言わない! それにイイこともあった——いや、何でもない」  そう言いかけて、斗楽は慌てて口を噤む。そして誤魔化すように、「メニューでも見るか」と、オーダーを終えているのに、立てかけてあったメニュー表に手を伸ばした。 「イイ事ってなんですか?」  うっかりの声を朝日がすかさず拾う。優秀なリベロのように、彼はポロリと溢した斗楽の言葉や、呟き、仕草、表情をいつも掬い上げてくるのだ。 「大した事じゃないから。アシスタントの割に結構メシ食えたなーって」 「……ならいいんっすけど。俺、先輩と同じチームになって初めての忘年会だったから。参加できなくてホント残念でした」  インフルになってしまった自分の不甲斐なさに八つ当たりするよう、朝日がおしぼりをぎゅっと握り締め、ビニール袋が小さく悲鳴をあげた。 「忘年会じゃなくてもまたチーム内で飲み会とかあるし、そんなに拗ねんな」  小さな子どもを宥めるよう、斗楽は和やかな笑みを向けた。その笑顔にどこか不服そうな朝日が唇を尖らせ、頬杖を付きながらテーブルに置かれた斗楽のスマホを凝視している。 「斗楽先輩の待ち受け、浅見薫でしょ? 彼のファンなんですか、俺、前から気になってて」 『浅見薫』というワードに一瞬ドキリとし、斗楽が耳を熱くさせ思わずスマホを手で隠した。 「あ、ああ、そう! 昔から大ファンなんだ」  「その人、結構いい歳してませんでした? 俳優ですよね? 三十五、六? くらいでしたっけ?」 「かなぁ、多分……」 「先輩って今、二十六歳でしょ? 昔って、十代の時からのファンだったんっすか」  おしぼりをテーブルの上で転がしながら、朝日が上目遣いに斗楽を見ている。大きな手のひらで、おしぼりをくるくると押しつけながら。 「そうだなぁ、十年くらい前からかな。昔は俳優さんじゃなくて歌を歌ってたんだ。その時からのファンなんだ」  二十代の精悍な浅見を思い出しながら、斗楽はスマホの画面をそっと撫でた。 「お待たせ致しましたぁ、サバ味噌のお客様は?」  甲高い声を店内に響かせ、スタッフが料理を乗せたトレーを両手にやって来た。斗楽は軽く手をあげ、「あ、俺です」と、トレーを受け取ると、もう一方のトレーは朝日の前に置かれた。 「こちら、生姜焼き定食です。汁物熱いのでお気をつけください。では、ごゆっくりー」  軽快な決まり文句を言った後、新規の客に気付き、スタッフがエプロンをひるがえし出迎えに行った。いつ聞いても元気な対応で、料理が一層美味そうに思える。彼女の接客も、この店が繁盛している理由のひとつだろう。 「先輩の美味そうですね」 「だろ? まだ食ったことないならオススメだぞ。さあ食べよう。朝日、いただきますっ」  味噌と生姜の香りに鼻をヒクヒクさせ、斗楽は待ちきれなくサバを口に運んだ。そして「あー、美味い」と陶酔してしまう。いつもの安定の味だ。 「先輩、ホントに旨そうに食いますね」  少し目を細めながら朝日が言っても、斗楽はなめこの味噌汁を夢中で啜っている。その様子を見ていた朝日の小さな溜息にも気付かずに。 「だって本当に美味い! この味は誰にもマネできないな」 「先輩の弁当もいつも旨そうですけどね」  生姜焼きに手も付けず、なんだか拗ねた口調の朝日が、箸を往復させる斗楽へ呟いてくる。けれどその声は本人には聞こえず、「冷めるぞ、早く食えよ」と、代わりに甘く叱責された。  返事の代わりに朝日が茶碗を手にすると、白米の上に生姜焼きを乗っけて、やけっぱちのようにめいいっぱい頬張っていた。
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