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 年末までの多事多端な日々を送っていた斗楽は、数日続いた残業が週末に来てようやく落ち着き、肩で大きな溜息を吐いた。   今日は一日中パソコンと格闘し、会議用の資料作りをしていたせいか、肩や腕がガチガチに凝り固まっている。 「斗楽先輩、今日はもう終わりっすか」  散歩へ行くのを待ち望んでるワンコの如く、朝日が笑顔で斗楽の席までやって来た。 「俺も終わりそうだ、今日は久々に定時で帰れるかも」  天井に向かって両手を伸ばし、思いっきり伸びをしながら、喜びを全身で表現した。 「あ、だったら、帰りに飯でも——」 「去来川(いさかわ)!」  弦をピンと張ったような声で、朝日の誘いは遮られてしまった。 「日下部さん、どうかしたんですか慌てて」  普段からあまり慌てることなどない日下部(くさかべ)律人(りつと)が、足早に斗楽のもとへとやって来た。  日下部の表情からは、焦りよりも申し訳なさの感情が見て取れる。ただ、眉間にシワを刻んでいても、正統派のイケメンなのは変わらないけれど。  三十四才、しかも独身で幹部からも評判のデキる男。これまでも数々の広告を手がけてきた日下部を優良物件だと言い、うるうるした瞳で見つめている女子社員は少なくない。  そんなベテランマネージャーが、斗楽の名前を呼びながら焦っているのだから余程のことだろう。 「去来川、悪いけど今からアイルジャパンに見積もりを取りに行ってくれないか」 「アイルジャパンの?」 「ああ、駅ビルの広告塔に出す見積もりだ」 「それだったら、来週月曜に打ち合わせを兼ねて受け取る予定ではなかったでしょうか」  鞄から手帳を取り出し、ページをめくって日程を確認した。   「その予定だったんだが、先方の担当者が急な出張で月曜から不在になるそうなんだ。打ち合わせの日も変更して欲しいと言っている」 「急ですね……。分かりました、今から行ってきます。見積もりがないと予算組めないですもんね」  瞬時に理解し、斗楽はデスクの上を片付けながら出かける準備をした。 「悪いな、この時間からで。今日は直帰していいから」  日下部が申し訳なさそうに言う。こう言う僅かな心配りも、女子から人気のある理由の一つだ。だが、当の本人は熱い視線を向けられている自覚はない。それがまた返ってそそられるのだろう。 「ありがとうございます。じゃ、行ってきます」  コートを羽織り、斗楽が部屋を出ようとし、すかさず朝日が、「行ってらっしゃい、気をつけて」と、急ぐ背中に声をかけてくれた。そんな朝日に、斗楽は返事の代わりに手を振った後ドアを静かに閉めた。 「去来川さん、わざわざお越しいただきありがとうございました」  アイルジャパンの担当者が、ロビーまで見送りに来て斗楽に頭を下げてくれる。  ビル内にある他の企業も定時をとっくに過ぎているせいか、人影はまばらでシンとした空間に仰々しく陳謝された声が響いていた。 「いえ、とんでもない。打ち合わせの前に拝見できて、(かえ)ってよかったです。ありがとうございました」  コメツキバッタのようにお互いに頭を下げ合い、担当者と別れた斗楽は、コートの袖から時計を見て時間を確認した。  ——この時間なら、あのケーキ屋開いてるぞ。  悪戯するかのようにほくそ笑むと、頭の中で好物のチーズケーキを思い浮かべた。けれどカバンの中にある見積書が気になる。  重要書類を持ったまま、週末を過ごすのは不安だ。そんな考えが一度浮かんでしまうと、もうその思いを掻き消すことができず、ガラスケースの中で鎮座するケーキを無理やり排除すると斗楽は踵を返した。 「やっぱ心配だし、会社に見積もり置きに戻ろう。それに日下部さんまだいるかもしれないし」  独り言で勢いをつけると、斗楽は通りまで歩いて空車のタクシーを待った。  七時を少し過ぎた時間は帰宅ラッシュなのか週末だからか、渋滞までは行かずとも道路は混んでいる。上手く空車を確保できるか心配したけれど、運良くゲットし早く乗り込むことが出来た。  ——もう帰っちゃったかな……。  運転手に行き先を告げた後、斗楽はもう一度時間を確認した。  本来ならタクシーを使うまでもなかったが、金曜日ということもあり、日下部が早目に帰宅するかもと予想しての交通手段だった。  三十分ほど乗車し、タクシーが会社の前で停車すると、斗楽はカバンから財布を出そうとして、慌てて中身を足元にぶちまけてしまった。 「やばっ。す、すいません、ちょっと待って下さい」  運転手に詫びると、手早く中身を拾い集めて支払いを済ませた。  鞄とコートを抱えて降車すると、斗楽は足早に正面玄関の自動ドアをすり抜け、エレベーターホールへ向かった。  斗楽が乗っていたタクシーが再び表示版を空車に切り替えると、静かにその場を離れて行く。  数百メートル走らせたタクシーは、一人の男性が歩道から手を上げているのに気付いて停車した。 「ディヴァインホテルまで」  乗車した男性に告げられると、運転手がアクセルを踏んで加速した。その反動で後部座席に座っていた男の靴先に、何かがコツンと触れる。男が足元に目をやると、フロアマットの上にスマホが落ちているのに気付いた。  男は前屈みになってスマホを拾い上げた。その時指先が画面に触れてしまい、浮かび上がった画面を見て男は瞠目してしまった。  画面に映し出されていたのは『浅見薫』だった。男は煌々と光りを放つ画面を凝視し、「懐かしいな……」とポツリと呟いた。  客の男——浅見薫が手にしたスマホの中には髪を茶色に染め、スタンドマイクに体を預けている過去の自分だった。 「お客さん、どうされました?」  運転手がルームミラー越しに訪ねてきた。 「あ、いえ。なんでもないです」  浅見は思わずスマホをジャケットのポケットに忍ばせた。  無理やり過去に葬り去った自分が、何の前触れもなく目の前に現れた。それに呼応するよう、忘れたくても忘れられない『出来事』がまざまざと蘇ってくる。  浅見は過去から逃げるように車窓へ視線を向けた。  外はいつの間にか藍色から墨に染まり、窓ガラスに映る情けない顔の男と目が合った。  ポケットに忍ばせた、スマホに写る自分と今の自分。同じ人間なのに、浅見は生き生きとしていた姿を妬ましく思った。  
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