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 待ち合わせのディヴァインホテルに到着した斗楽は、ホテルを見上げて唖然としていた。 「……すご。こんなに豪華だとは思わなかった」  指定されたホテルは、通勤電車の中から遠目でしか見たことのない、高層のハイクラスなホテルだった。迫力ある外観を間近で見上げ、斗楽は思わず感嘆の吐息をこぼしていた。  こんな高級なホテルを待ち合わせ場所に選ぶのは、きっとお金持ちか、社員から社長とか、取締役とか呼ばれている人間かもしれない。  手土産も持たずに来たものの、身分が違う相手だと逆に何を渡せばいいのか全くの皆無だ。 「もしかして、御前とか呼ばれてたりして。いやいや、時代劇じゃあるまいし、声だってそんな年齢じゃなかったしな」  ひとりでボケてツッコむことで、敷居の高さをちょっとでも低くしようと挑んでみても足は竦んでしまう。  時間を確認すると約束まであと十分しかない。ここは腹を括って入るしかない。見つけてくれた人に礼を言って、さっさと帰ろう。  斗楽は意を決して足を一歩前に出した。  自動ドアが開かれたと同時に、すぐ側にいたスタッフに丁寧なお辞儀をされた。慌てて斗楽も頭を下げると、立っている床が目に入り、それが大理石だと気付いてまた萎縮した。  恐る恐る足を忍ばせて周りを見渡すと、空気が一変して異国の雰囲気がそこかしこに溢れていたのを感じた。  香水とはまた違う高貴な香りがほんのり漂い、立ち止まって鼻腔に取り込んでいると、フロントにいるコンシェルジュの微笑みと目が合った。  ——恥ずかし、変なやつだと思われたかも。    自分でさえ思う挙動不審さに呆れながら、斗楽は臆した気持ちのままロビーを見渡した。  白とブラウンを基調とした清潔感あふれる内装。シンプルで品のある照明や装飾品。日常とかけ離れた世界が目の前に広がっていた。そんな中、まるで不法侵入でもするかのよう、オドオドした態度で目印の二つを探そうと丸い目でロビーを見渡した。  幸い数えられるくらいの人数で、電話の主を探し出すことは容易に思えた。  ゆったりくつろげるよう設計された数脚のソファには、上品な老夫婦と、別のテーブルにはスーツ姿で何やら商談めいた会話をしている男性の二人組み。そして外国人のグループと後はソファに座り、読書をしている男性。  斗楽から見ると、彼は背中を向けており、眼鏡をかけているのかが分からない。けれど性別や状況からして、待ち合わせした相手は彼だと思える。  斗楽は目印を確かめるため、ゆっくりと男性に近付き、相手の顔を見よう身を乗り出した。その時、テーブルの上に赤い紙で折られた折り鶴が目に飛び込んできた。  ——折り鶴……、きっとこの人だ。  目印を見つけると、斗楽はホッとして全身の筋肉を弛緩させた。  どうやって声をかけようか逡巡している斗楽をよそに、男性の視線は手にしている本にしか向いてない。不審者のように男性の背後に立ち尽くしていると、彼の人差し指が鼻根に触れた。その仕草はまさしく眼鏡のフレームをクイっと上げている。  声をかけることに躊躇っていた斗楽は、スッテップでも踏んでるかのよう、その場で足を踏み出したり後退させたりしていた。流石にその異様な気配を察したのか、男性が本から目を離し、斗楽の方を振り返った——と、その途端、斗楽の体は石膏で固められたよう動かなくなってしまった。  振り返った眼鏡の男性は間違いなく、浅見薫だった。  「あれ……君、もしかしてこの間の——」  斗楽の姿を目にし、そう声をかけた浅見が、ついでに何かを思い出したのか、急に肩を震わせながら必死で笑いを堪えている。  そんな浅見をよそに、斗楽の膝は全身を支えることに耐えきれず震え、麻酔でも打たれたかのように思考が麻痺している。  目の前の現実を受け入れ難く、興奮で叫び出しそうだった。  ただ、そんな朦朧とした中でも、浅見の微笑みが極上なことだけははっきりわかる。 「え……このスマホって斗楽君のだったんだ」  浅見の放った言葉に、斗楽は耳を疑った。  程よい厚みの唇は水を含んだ朱色のように艶っぽく、男性なのに美しいと言う形容詞しか思い浮かばない。なぜか涙目で笑いを堪えている姿も、秀麗な中に可愛らしさを含ませていて彼のファンじゃなくても悩殺されてしまう。  そんな人から名前を呼ばれ、斗楽の思考は遥か彼方の宇宙まで吹き飛ばされてしまった。   「斗楽君?」 「あ! は、はい!」  再び名前を呼ばれ、驚いた斗楽が緊張で不安定だった足をぐらつかせた。その瞬間、「危ない!」と叫ぶ浅見の声が聞こえ、ガラスの割れる音がロビー中に響くと斗楽の意識は我に返った。  ロビーにいた他の客の視線を一斉に浴びた斗楽は、目の前の惨事に瞠目した。  足元を見ると割れたグラスが散乱し、そこでようやく体に冷たさを感じて、右肩から下半身までが水浸しになっているのに気付いた。 「申し訳ございません!」  状況がまだ飲み込めてない斗楽に、ウェイターが頭を下げてきた。近くにいた別のスタッフも駆けつけ全員が斗楽に向かって何度も頭を下げている。 「だ、大丈夫です。こちらがよろけてぶつかってしまったんですから」  ようやく状況を把握した斗楽は浅見の視線を感じ、羞恥がつま先から頭の先まで駆け巡った。  顔中に含羞(がんしゅう)の色を溢れさせ、この現状をどうすればいいのかを必死で考えていた。だが考えれば考えるほど焦り、この場から走って逃げ出したくなった。 「本当に申し訳ございません、お客様、お怪我はないでしょうかっ」  タオルを持って斗楽に差し出し、深々と頭を下げながら、ウェイターが心配してくれる。 「へ、平気ですよ、大した事ないですから。ぶつかった俺が悪いんです、こちらこそすいません」  手厚い謝罪に恐縮した斗楽が、彼らよりも深く頭を下げた。その重力で、グラス四杯分の水を浴び、びしょ濡れの体から雫がポタポタと下へと落ちていく。でもそんなことはお構いなしに、顔を上げた斗楽は水を運んでいたウェイターに、「あなたの方こそ、怪我してないですか」と、言葉を重ねて言った。 「は、はい私の方は大丈夫です、お気遣いありがとうございます」  あまりにも焦るウェイターを気の毒に思い、斗楽は安堵を誘うよう「よかった」と言って笑顔を向けた。  優しさの滲み出るやり取りに、興味津々で見ていた周りの客達の愁眉(しゅうび)も解けていった。 「斗楽君、濡れてる服を乾かそうか」  斗楽の手にしていたタオルをするりと引き取り、浅見が濡れた髪を拭いてくれようとする。  労わるように触れる感触がタオル越しに伝わり、礼を言うのも忘れて浅見の顔を眩しそうに見惚れてしまった。 「結構濡れたな……。このままじゃ風邪をひく」  浅見の声で我に返ると、「だ、大丈夫です、こ、こんなのすぐに乾きますから」と、大袈裟なほど首と手を振って断った。 「ダメだ。乾かさないと、真冬にその姿だと風邪をひく。とりあえず、俺の部屋に行こう」 「えっ!」  一驚した斗楽がロビー中に自分の声を張り巡らせた。何が何だか分からず呆けていると、横で浅見がグラスを片付けているスタッフに何やら言葉をかけている。  斗楽はふと何かを思い出したように、浅見の座っていたテーブルの方へ目を向けた。そして、「よかった、濡れてない」と、折り鶴をそっとハンカチに包んでいると、「おいで」と浅見に肩を引き寄せられ、エレベーターの中へと運ばれてしまった。 「あ、あの、あの……」  戸惑う斗楽に、「とりあえず、シャワー浴びて着替えなさい」と浅見が微笑んで言う。  誰もが魅了される顔で微笑まれると、飼い主に従順な犬になった気分だ。  恍惚とした眼差しだけはせめて隠そうと、エレベーターの中では終始下を向いていた。そのせいか、箱はいつの間にか目的の階に到着していた。  エレベーターを降りても尻込みしていると、徐に手首を掴まれ、浅見がぐんぐんと廊下を歩いて行く。   テラコッタ色の絨毯が敷かれた廊下の両サイドには、足元を照らすためのライトが控えめに揺れている。  天井も同じようにほんのりと照らし、静かな廊下を二人で歩いていると、踏み出す足がふわふわして夢の中にいる気分だった。  スマホを拾ってくれた人が浅見だった。そんな奇跡を自分が味わうなど、もう一生分の運を使い切った気がする。  ずっと憧れていた別世界の人。  忘年会の日に思いがけない出逢いをした幸運は、神様か誰かがくれたご褒美なのだろうか。そんな風に思え、忘年会の赤っ恥もその後の仕事も頑張れた。なのに、今、また、こうやって憧れの人が目の前で動いている。この状況を奇跡以上の言葉で表すなら、何て形容すればいいのだろう。  ——なのに、俺はそんな人の前で失態を……。  ただでさえスマホを拾ってくれた手間もあるのに、浅見の前で水をかぶってしまったうえに、部屋へ招いてくれようとしている。  それにホテルの人達にも迷惑をかけてしまって心苦しい。  斗楽は等間隔に灯る間接照明の廊下を、重い荷物でも首からぶら下げたように、項垂れて歩いていた。  廊下の突き当たりまで腕を引かれたまま進むと、浅見の部屋なのだろうか、二七一三のプレートが付いたドアの前で立ち止まった。  浅見が胸ポケットからカードキーを出し、ドアを開けると、「さあ、入って」と部屋の中へ導かれた。 「お、お邪魔……し……ます」  物怖じしながら廊下を進むと、黒柿(くろがき)色のモダンな家具に、顔が映り込みそうな大理石の床。落ち着いた雰囲気のリビングにベッドルームがセパレートになったスィートルーム。この部屋は浅見が寛ぐ場所に相応しいと、感嘆の溜息が溢れた。  斗楽は窓際へ吸い込まれるように歩み寄ると、目の前に広がるダイナミックな高層ビル群の夜景に目を丸くした。 「斗楽君、こっち」  宝石のような景色に目を奪われていると、突然名前を呼ばれ、斗楽の心も心臓も飛び上がるほどはしゃいでいる。  胸の高鳴りが止まらない斗楽をよそに浅見が手招きすると、パウダールームの奥にある浴室へと案内してくれた。 「はい、じゃこれ使って」  そう言って手渡されたバスローブを受け取ったものの、戸惑いを隠せない斗楽が浅見の顔を見上げた。 「シャワー終わったら服持ってきて。ホテルの人に乾かしてもらうから」 「え! いえ、あの、自分でドライヤーで乾かしま——」  そう言いかけて浅見を見上げると、「いいから」と柔和な声で叱責され、ドアが静かに閉ざされた。
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