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「あの、終わりました……ありがとうござい——」
おずおずとパウダールームのドアを開け、礼を言おうとして斗楽はその言葉を途中でひかえた。浅見が電話中だったからだ。
斗楽に気付いた浅見が、会話を終えたのか、備え付けの電話を切って受話器を置くと、
「終わった? もうすぐスーツ返ってくるから——」と、浅見も言葉を途中で切ると、無言のまま斗楽の方へ近付いてくる。
「浅見……さん?」
憧れの人が至近距離に来ることで、斗楽の緊張がマックスになる。ドキドキして身構えていると、不意に前髪に触れられた。
「斗楽君、髪まだ濡れてるよ。乾かさないとダメだ。シャワーしたのにそれじゃ意味ないよ」
甘い声でそんなことを言われながら、水を含んだ毛先を骨ばった指に器用に巻き付けなた浅見が顔を覗き込んでくる。
髪の先端に触れられただけなのに、斗楽の肌は電流が走ったかのようにピリリと甘く痺れ、思わず下を向いてしまった。
男の人を相手に男の自分が心臓を跳ねさせ、鼓動を逸らせている。こんな姿は、浅見のことを意識していると言っているようなものだ。
不埒な自分の気持ちがバレないよう、力を込めてこぶしを握っていた。サイズの大きなバスローブの袖が長かったのが幸いし、力んでいたのは浅見にはバレていないはず。
斗楽の緊張に気付かず、「ちょっとおいで」と言ってパウダールームに連れて行かれ、ドライヤーで斗楽の髪を乾かし始めた。
「ちょ、ちょっと、浅見さん!」
驚く斗楽を鏡ごしに見ながら、浅見が黙々と手を動かしている。耳元で鳴るドライヤーの音に掻き消され、斗楽の小さな声は届かない。反対に大きな手は止まることなく、柔らかな黒髪に戻っていくのを満足げに撫でている。
「……ありがとうございます」
温風に晒された髪がなびく隙間からお礼を言った。でもきっとその声も聞こえてない。ただ、斗楽の唇の動きで悟ったのか、浅見が鏡越しに口角を上げてこちらを見ていた。
浅見の手が、指が、自分の頭を撫でている……。そんな至福なひと時、いや、それ以前に浅見と部屋に二人きりでいる。それだけでも自分は明日にでも死ぬんじゃないかと最後の晩餐然り、夢心地で斗楽はうっとりと瞳を閉じていた。
「はい、乾いたよ」
浅見の声で夢から覚め、ドライヤーのスイッチを切る音が斗楽を現実に戻した。
「こ、こんな事までしていただいて、ありがとうございました」
額が膝にぶつかるんじゃないかと思うほどお辞儀をし、そして斗楽は勢いよくその顔を上げた。
「そんな恐縮しなくていいよ」
そう言って浅見が伸びをしながら、先にリビングに戻って行く。斗楽は素足に履いたスリッパをパタパタさせ、浅見の後を追った。その姿を肩越しに浅見が振り返り、自分を見つめる彼の双眸と絡まる。
下着の上に羽織っただけのローブの裾からは、丸い膝がチラチラと見えては隠れている。浅見の体に合わせて用意されたサイズは大きすぎ、斗楽の胸元は大きくはだけ、水溜りが出来そうな鎖骨が露わになっていた。
ドライヤーの熱と浅見に触れられ、恥を含んだ頬。ローブの紐を巻いた腰があまりにも細く、スーツを纏ってなければ一瞬性別を疑われてしまう。斗楽のバスローブ姿は、男だとしてもあまりにも無防備だった。
リビングに佇んだまま、ジッと凝視してくる浅見にまた緊張が生まれる。
——なんで浅見さんはジッと見てくるんだろう。
憧れの人からの視線に耐えきれず、斗楽は何か話そうと脳をフル回転させた。だが、気の利いた言葉は何も浮かばず、手触りのいいローブを両手の中に手繰り寄せるだけだった。
その時、緊張の極限に立つ斗楽を救うように、部屋のインターホンが鳴った。
「服、持って行くよ」
空気を変えるよう浅見が斗楽の手から、ぐっしょりと濡れたスーツを引き取っていった。
「浅見様、ルームサービスお持ち致しました」
扉の向こうには客室係が待機していて、ワゴンを押しながら部屋の中へと進んでくる。
「ありがとう、あとはこっちでするからいいよ」
「かしこまりました。ではお預かり致します」
斗楽のスーツを抱え、客室係が部屋を去って行くと、浅見がワゴンからワインやチーズを手際よくテーブルに並べていく。その背中を見つめる視線に気付いたのか、「腹減ってない?」と、ワインをグラスに注いでいる浅見に尋ねられた。
「そんな、とんでもないです! 服が戻れば早々に失礼しますから」
慌てて両手を大きく横に振り、浅見の申し出を精一杯断ってはみたものの、チーズや生ハムの匂いに反応したお腹が、体の持ち主に逆らうよう主張してきた。その音は確実に浅見に聞こえたと自覚し、まだ飲んでもないのに斗楽の顔は真っ赤になった。
「ハハハ、腹は正直だな、遠慮しないで食べな。ほら」
ククッと笑いをこらえながら、ワイングラスを斗楽に差し出してくれる。グラスの中で美しく輝く深緋色。繊細な光沢を纏う美酒は、浅見の手によって更に輝きを増しているように思えた。
「すいません……いただきます」
遠慮がちにグラスを受け取り、ワインをゆっくり口に含んだ。カラカラだった喉にじんわりと染み込むよう、果実の甘みが糸を伝うように真っ直ぐ全身に染み渡ってくる。
「美味しい……」
あまりの美味しさにすぐグラスを追いかけ、二口三口と喉元を上下させた。
いつの間にかソファーに腰掛けていた浅見が、斗楽にも座るよう隣のスペースをポンポンと叩いた。
アルコールの入った思考は少し斗楽の気持ちを緩ませ、言われるがまま浅見の隣に腰を下ろしていた。
「なあ、何であんなお面つけてたの?」
その質問に「お面?」と小首をかしげる。さっきまでほんのり朱が差していた頬は一段と赤みを増し、斗楽の白い肌を強調していた。熱を持った顔にワイングラスを当て、ひんやりした感触で、浅見の質問を理解した斗楽は、パッと嬉しさを出したかと思うと、今度はさーっと血の気が引く音が聞こえた気がした。
「あ、あ、あれは、か、会社の忘年会での余興で、司会の方のアシスタントをしてたんです」
「へぇ、面白い事するな。それで変な動きしてたんだ」
正直、自分ではどんな格好をしていたのかわからない。同僚が面白がってスマホで撮影していたけど、斗楽自身は封印したいくらいの黒歴史。見たくないからと、動画は全面的に拒絶していた。
きっと盆踊りでもしてるかのような、妙な動きをしていたんだと思う。想像して恥ずかしくなり、斗楽は手で顔を覆って逸らした。
背中で浅見の笑いが蘇ったのを耳にしながら。
「わ、笑わないでください。あ、あれは急遽の代役だったんです。打ち合わせのないイキナリの本番だったから練習しないと、場をしらけさせてしまいますからっ」
浅見に背中を向けたまま、ワインの力を借りて斗楽がちょっとだけ饒舌を披露した。
「そ、そうか。わ……悪い」
浅見はまだ笑いが止まらない。その証拠に、我慢してるのか浅見の肩が小刻みに震えている。そして誤魔化すように斗楽の髪をクシャリと撫で、「耳まで真っ赤だな」と意地悪く顔を覗き込まれた。
「……それは仕方……ないんです。俺、中学の時からずっと浅見さんのファンだったから。緊張するの当たり前じゃないですか」
勢いよく告白し、斗楽は羞恥を隠すようにグラスのワインを飲み口に含んだ。
「……へえ、中学から応援してくれてたのか。でも斗楽君の年齢だと俺のことそんなに知らないだろ」
浅見のそのひと言で斗楽は体を正面に戻すと、「浅見薫は俺のレジェンドです!」とこぶしを掲げて言い切った。
そんな姿も浅見のツボにハマったのか、また笑いながら、さすが衛兵殿と言った。
「でも、浅見さんのことを教えてくれたのは父なんです」
自分で言って、斗楽は引き出しにしまっていた父との思い出を開けてしまった。
「俺には双子の弟がいるんです、めちゃくちゃ優秀でかっこいい男なんです。俺の自慢の弟なんです。でもこうやって自慢できるようになるまで、俺は少し時間がかかって……」
「それはどうして?」
浅見が静かに聞いてくる。いつの間にか笑いは消えていた顔で。
「俺って、ほらこんな見た目だから。女子に間違えられることなんて、中学の時とかよくあったし。なのに、名前が『斗楽』でしょ? 勇ましい名前に追い付いてないって、よく笑われました。反対に、玲央——あ、弟の名前なんです。父が双子が強くて逞しい男になるようにってつけてくれたんです。でも、見事に俺は裏切っちゃいましたけどね。でも玲央は名前の通り、百獣の王って感じで、文武両道なモテ男に育っちゃって」
ここまで話した斗楽は、手にしていたワインを一口含んだ。
「小さな頃から何をやっても玲央には敵わない。凹んでいじけていた俺を父がライブに誘ってくれたんです。あ、もちろん玲央も一緒に。その連れて行ってもらったのが浅見さんのライブでした」
斗楽は浅見のグラスが空になってるのに気付き、ワインを注ぎながら話しを続けた。
「父はずっと浅見さんの大ファンだったんです。その時初めて浅見さんの歌を生で聴いてものすごく感動したんです。特に、『eternal friendship』って言う歌が好きで。俺はその曲を聞いた時、玲央に対して捻くれたり拗ねたりしていたのが恥ずかしく思ったんです」
熱の籠る斗楽の話を、ゆっくりワインを飲みながら浅見が聞いてくれている。そんな空気を実感しながら、斗楽は浅見への想いを綴った。
「それからもライブには必ず三人で行ってました。でも俺が高校一年の時、父は事故で……他界してしまって。それからはライブに行けなくなっちゃって……」
言いながら、その後しばらくして浅見が歌をやめてしまったことを考えていた。理由も報道されず、当然歌の世界から消えた浅見。
その理由が知りたくても、一般人の斗楽が聞いていい話ではない。
視線を自分の膝へ落としていると、ふと浅見の視線に気づき、斗楽はハッと気づいて顔を真っ青にした。
自分は何をペラペラと暗い話しをしてしまったのかと。案の定、浅見を見ると表情に翳りが差している。自分の話しが不愉快な気分にさせたと焦り、斗楽は咄嗟にデザートの果物の中からオレンジに手を伸ばした。
「あ、あの浅見さん果物食べますか? えっとオレンジとか好きですか?」
食べやすいように予め皮に切り込みが入っていたのか、ひとくちサイズにカットされていたオレンジの皮を左右に引っ張り、下へ折り曲げると中の果実が顔を出した。
果汁がキラキラ溢れ出し、斗楽の手を濡らしていく。
震える手で差し出すと、オレンジの果汁で濡れた指先を見つめられている気がした。
斗楽が戸惑っているといきなり手首を掴まれ、浅見が自分の方へ斗楽の手を引き寄せると、手にしていたオレンジを指ごと浅見が口に頬張った。
「あ、浅見さん!」
驚いてる斗楽をよそに、「甘いな」と、指先を舐めながら満足そうに味わっている。
慌てて引っ込めた手を背中へ隠し、自分を茶化すような目で見てくる浅見を恨めしげに見返した。
指先に残る浅見の唇の感触が斗楽の心を戸惑わせ、目の前で飄々としている憧れの人にちょっと腹が立った。
大好きファンで憧れていると告白した一般人にそんなことすれば、ときめかない人間はいない。ムッとしていると、浅見が顔を寄せてきた。
彼の虹彩には戸惑う自分の顔が映っている。自分の動揺が確認できるくらいまで近付かれ、それがまた脳を沸騰させてくる。すると次の瞬間、浅見の手が斗楽の頬に触れ、指でそっと撫でられた。
「やっぱ、柔らかい」
確かめるかのように何度か親指と人差し指の腹同士をくっつけるように動かされ、されるがままの斗楽を愉快そうに見ている。
「ちょ、ちょっと浅見さん……」
いつまでも頬を掴んでくる手を払い除けようとし、背中に回していた腕を伸ばそうとした途端、浅見の両手がそのまま斗楽の頬を包んできた。
驚いて固まる斗楽をよそに、頬に触れていた片手が後頭部へと移り、浅見が自分の顔へと引き寄せる動きをする。引力のような逆らえない力がかかり、厚みのあるたくましい胸に斗楽の肩はすっぽり収まってしまった。
驚いて顔を上げると、お互いの鼻が触れ合う距離にあった。
骨ばった長い指が斗楽の顎を捉え、柔らかな桜唇へ浅見の指でなぞられると、顔が一段と近付いて唇が落とされた。
密着した互いの体から熱が発酵し、わずかな時間、唇は触れ合ったままだった。
一度離れると、名残惜しいと言うように再び引き寄せられ、今度はさっきより深く重なりあった。
唐突に訪れた一連の流れに、斗楽の体は硬直し抵抗することも、ましてや受け入れることも出来ずに浅見の腕の中でもがいていた。
何が起こったのか理解できずにいると、突然耳に飛び込んできた聞き慣れた機械音に斗楽の体はピクリと反応し、浅見の体から飛び退いた。
顔が真っ赤になっているのが自分でもわかるほど熱い。斗楽の反応を楽しげに眺める浅見に頭をポンポンとされ、本人は何事もなかったように入り口へと向かった。
ドアを開けると、インターホンを鳴らした客室係が待機していた。
「お待たせして申し訳ありません、お預かり致しました服をお持ちしました」
浅見が服を受け取ると、客室係が制服のポケットから何かを取り出している。
「浅見様、乾かす前に確認しましたらポケットの中にこれが入っておりました」
そう言って彼が差し出したのはネイビーの名刺入れだった。
「わかった、ありがとう。助かったよ」
ドアを閉めて浅見がリビングに戻ってくると、まだ熱が引かない斗楽は咄嗟に背中を向けてしまった。
「斗楽君、服戻ってきたよ」
「は、はい」
返事をしたものの、すぐに動けず、数秒かかって浅見に駆け寄り、頭を下げてスーツを受け取った。
「ありがとうございます、直ぐに着替えてきます」
服を受け取りパウダールームへ直行した。そしてドアを閉めた途端、足の力が抜けてカべにもたれ、その場にへたり込んでしまった。
——あ、浅見さんとキ、キス……し……た?
スーツを両手で抱え、縋るようにその中に顔を埋めた。
上手く息をする事が出来ず、心臓が壊れそうなくらい鼓動が激しく暴れている。
何が何だかかわからない。パニックになりそうな自分に、しっかりしろと心の中で怒鳴った。
——きっと、浅見さんはふざけただけだ。俺を揶揄って楽しんでいただけ。
ギュッと目を瞑り、勘違いしないように自分へと言い聞かせた。
なんとか着替え終えると、斗楽はリビングに戻りソファーに座っている浅見に声をかけた。
「あの、今日はいろいろご迷惑をかけてすいませんでした。スマホ本当にありがとうございました」
深々と頭を下げ改めてお礼を言った。
「いや、それより斗楽君、これ——」
「あの、浅見さん!」
斗楽は言下に浅見の声を遮り、必死で平静を保たせながら浅見を見上げた。
「スマホ、拾ってくださって本当にありがとうございました。それと、長居してしまってすいません。これからも浅見さんの事ずっと応援してますっ」
一気に言い終えると、斗楽はコートとカバンを手にしてドアまで早足で向かった。
「斗楽君——」
浅見が声をかけたのと同じタイミングでくるりとは振り返えり、
「浅見さん、今夜のことは夢のようで……。俺、一生忘れません。でも浅見さんにご迷惑をかけるようなことは絶対にしませんから、安心して下さい」
まっすぐ浅見の目を見て斗楽は言った。
感情が高まり涙声になってくる。それを斗楽はなんとか踏ん張って堪えた。
「あと、ドラマ、がんばってくださいね」
胸を突き上げてくる感情を押し殺し、深々と頭を下げた。
「それじゃ、俺、帰ります……さようなら」
一方的に一人で喋り続けると斗楽は最後に一礼し、逃げるように部屋を出ていった。
ドアがゆっくり閉まり、シンとした部屋にカチャリと自動ロックの音だけが響く。
声を掛けそびれた浅見の中に、経験した事のない切ない気持ちが胸を支配し、その場に立ち尽くしてしまった。
リビングを振り返ると、さっきまで二人で座っていたソファと、テーブルには飲みかけのワインだけが寂しげに取り残されている。
浅見はソファに腰を下ろすと、さっきまで斗楽が座っていた場所に触れた。
——まだあったかいな……
急にひとりになってしまった寂しさからか、渡し損ねた名刺入れを指でなぞると、今わかれたばかりの顔を思い浮かべていた。
ソファにゴロンと横になり目を閉じると、もの悲しい気持ちに襲われる。
『さようなら……』と言った斗楽の声が耳から離れなかった。
自然と名刺入れを開けてみる。
中には多数の企業の名刺と斗楽の名前が書いてあるものが数枚入っていた。
「アヴェックトワ株式会社。プランナー室、去来川斗楽か……」
名刺入れを持った手をソファから脱力させ、反対の手の甲をアイマスク代わりにして目を閉じた。
斗楽が話してくれた過去の自分。暗闇の中でずっと封印していたものが、ガタガタと音を立てて出てこようとする。
——思い出しても、今さらなのに……。
ゆっくり体を起こして煙草に火を着け、溜息と共に紫煙を吐き出した。
いつも一人でにいた部屋の中で孤独なのは慣れているはず。なのに、会って間もない斗楽の温もりに縋りたい自分がいる。
「こんな気持ちは久しぶりだな、だけど……」
言いかけて飲み込んだ言葉は、静まり返った部屋で紫煙と一緒にゆらゆらと揺蕩っているだけだった。
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