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 スーツに革靴はどう考えても、走る格好じゃない。それを今、身をもって知った。  ドラマや映画で見る刑事は、犯人を追いかける時の定番なスタイルだけど、あんな格好で全速力なんて出来るわけがない。  実際に走ってみると、靴の中で足は動いて痛いし、何より早く走れない。  短距離走で県大会三位の実力を持ってしても、走り続けるのは絶対に無理だ。  頭の中でそんなことを考えながら、去来川(いさかわ)斗楽(とら)は横浜中華街に向かってスーツと革靴姿で走っている。  普段の仕事で着るスーツより、ちょっとだけ値の張る一張羅(いっちょうら)。  去年の夏のボーナスで奮発したスリーピースは、小柄な体を少しでも縦長に見せてくれる効果ありと、店員のその一言でカードを切った。おまけに革靴まで。  なのに……。  ——もう、この靴はダメだろうな……。  下ろし立てで輝いていたのは、会社を出るまでで、今はくすんでおまけに水溜りに勢いよく踏み込んだものだから、泥までついてしまっている。  繰り返す短い呼吸の中、自分はどうしてこうもダメダメ人間なんだろうと嘆いていた。こんなこと、今日が初めてではないけどと、ひとりボケ突っ込みなんかして。  ようやく目的地に辿り着いたのはいいが、似たような通りに店構え。そして週末の宵の口は、人、人、人で溢れている。そんな中でアレを売っている店を探すのは至難の業だ。 「どこに売ってるんだろ……」  こめかみを伝う二筋の汗は、全力疾走したからか、それとも焦りからなのか……。  遡ること四十分ほど前、会社のある横浜駅から電車に飛び乗り、元町駅に着いた斗楽は猛ダッシュして今、この場に立っている。 「くっそー、俺ってばどうしていつも肝心な時に抜けてるんだよ」  耐えきれず声に出してみたけど、聞いてくれる人も慰めてくれる人もいない。  前もってネットで購入したまではよかった。ここまでは自分を褒めてやれる。だがそれを家に置きっぱなしにして、会場に持ってくるのを忘れた自分の不甲斐なさは、ドジを超えて情けなさ過ぎる。けれど、いくら我が身を罵ってもないものは無いのだ。 「早く手に入れて会場に行かないと間に合わない。今年は特別なのに……」  手の甲で汗を拭うと、初冬の風はしっとりした肌を一気に冷やしてくる。  斗楽はぶるりと身震いし、ここで初めてコートを会社に忘れたことに気付いてまた落ち込んだ。  ——凹んでいても、誰も笑顔にはなれない。  今日の全うすべき使命は何ひとつ終えてないと自分を鼓舞し、斗楽は痙攣する横隔膜を労わりながら再び店を探すために走り出した。  提灯やライトアップされた建物に眩暈を覚え、賑わう雑踏を掻き分け、アスファルトの上に革靴を跳ねさせた。そしてようやく市場通り門に辿り着くと、ある一軒の軒下に飾られているアレが目に入った。  斗楽は横行する流れに逆らい、飛び込むように店の前にやって来た。 「あった……。よかった、これで第一関門クリア」  安堵していると、店の奥から店主らしき男性が「いらっしゃい」と、声をかけてくれた。  斗楽は覚悟を決めるよう喉を鳴らし、すうーっと息を吸い込むと、「ダイトーウトーウ マァイッ」と大声で叫んだ。  あまりの声の大きさと、不可思議な言葉に店主が面食らって首を傾げている。斗楽は自分の中国語が通じなかったと焦り、同じ言葉を何度も繰り返し、店主の眉間にシワまで刻ませてしまった。  ——どうしよう、通じない……。  発音が悪いのかと嘆いていると、突然店主が手のひらにこぶしを打ちつけ、「ああ、中華お面を買いたいのかい」と、軒下にぶら下がる、おちょぼ口でうすら笑みを浮かべる、デッカい少女の顔を指さした。 「あ、え、あれ、日本語——。あ、いや、そう。それですっ」  流暢な日本語で答える店主を見やると、斗楽が不思議そうな顔をするのに気付いたのか、店主が大声で笑い出した。 「お客さん、此処いらで店持ってる中国人は殆ど日本語喋れるよ。私も二世だしね」  まだ笑い足りないのか、店主がヒッヒッと引きつり笑いをしながら少女の頭を棒のようなもので引っ掛けると、ゴミ袋サイズのビニール袋に入れてくれた。その様子を見届けながら斗楽は、「また騙された」と、憎々しく地団駄を踏んでいた。  店にいる人間は中国人が多い、だから中国語じゃないと通じないぞ——と、先輩に言われたのを鵜呑みにしてしまった。そして教わった名前が『大頭頭(だいとうとう)』と言う馴染みのない言葉。  中華街に行ったことがないと溢したのが運の尽きで、先輩方を楽しませるための、格好の餌食にまたなってしまったのだ。  愛想も素っ気もない包装——と言うか、ただの透明な袋にゴロンと入った顔は、一見するとゾッとして二度見してしまう。  生首にしては、ちょっと大きいけど。  斗楽は日本語が通じる店主を恨めしく見つめながら、少女の首を受け取って店を後にした。 「早く行って準備もしないと……間に合うかな」  焦りながらも目指す会場が、中華街からそんなに離れてない場所なのが不幸中の幸いだと少し安堵した。  よいっしょと、生首——いや、中華お面をサンタクロースのように背負い、斗楽は再び駅に向かうために足を早めた。  せっかくキメ込んだとっておきのスーツ。もう汗とシワでぐしゃぐしゃだ……。
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