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七月二十五日。井上蓮は深夜の子守峠に来た。井上の職業は動画投稿者で、心霊スポットの映像を投稿し、広告収入を稼いでいる。
井上は車を止めて外に出た。夏の暑さがまとわりつく中、右手にカメラ、左手に懐中電灯を持って実況を始める。
「真っ暗ですよ。ライトがなきゃ何も見えない。こえー」
そう言って暗闇を歩いていると、女の声がした。
「もし、そこのお方」
「うわっ」
井上は驚いて声がした方を見た。そこには赤い和服の女が立っていた。
「この子が夜泣きをするので、一緒に子守唄を歌ってください。この子の父親の代わりに」
懐中電灯に照らされているわけでもないのに、女の姿は真昼のようにはっきりと見える。井上は今まで数々の心霊スポットに足を踏み入れてきたが、ここまで明確な怪異を目の当たりにするのは初めてだった。本能が女に逆らうのは危険だと警告している。
井上は懐中電灯をポケットにしまい、赤ん坊を片手で受け取った。
それをカメラで撮影する。赤ん坊には首が無かった。
やはり幽霊だ、と井上は戦慄したが、口には出さなかった。
女が言う。
「私が子守唄を歌うので、後から私と同じように歌ってください。いいですね、絶対に同じように歌うのですよ」
井上は黙って頷いた。
「では、歌いますよ。ねんねんころりよ、おころりよ。坊やはよい子だ、ねんねしな」
井上は声を震わせながらも、懸命に歌った。
「ねんねんころりよ、おころりよ。坊やはよい子だ、ねんねしな」
その後、井上はミスをする事なく歌い、三番目の節まで辿り着いた。
女が歌う。
「里のみやげに何もろた。でんでん太鼓にしょうの笛」
井上が続ける。
「里のみやげに何もろた。でんでん太鼓にしょうの笛」
女は笑顔になって言った。
「ありがとうございました。これで坊やも満足するでしょう」
井上は緊張から解放され、長い溜息をついた。
女が言う。
「あなたは本当にいい人ですね。あなたが私の坊やだったらいいのに」
「え?」
「あなたは夜泣きなんてしないわよね」
井上は言葉の意味が分からなかった。その時、ドサッと何かが地面に倒れる音がした。
井上は後ろを見た。信じられない事に、そこには自分が倒れていた。その手にはカメラが握られ、もう片方の手で赤ん坊を抱いている。
立っている自分の方は何も持っておらず、服すら着ていなかった。
なんで、と言おうとするが声が出ない。女の顔を見ると、優しそうに微笑んでいる。
突然、井上の目線ががくんと下がった。そのままどんどん下がっていき、最終的には女の足しか見えなくなった。立つ事すらできなくなり、四つん這いになる。手を見ると、赤ん坊のように小さかった。井上は自分が赤ん坊になった事に気づいた。
「よしよし」
女はそう言って赤ん坊になった井上を抱きかかえた。
「可愛い私の坊や」
女は井上の頭を愛おしそうに撫でると、煙のように姿を消した。
翌日、子守峠で井上の遺体が発見された。
警察は遺体が持っていたカメラを調べた。そこには井上が一人で子守唄を歌い、突然倒れるという奇異な映像が記録されていた。
遺体に目立った外傷は無く、解剖の結果毒物を服用した形跡も無かったため、警察は井上の死因を心臓発作による突然死と結論づけた。
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