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盆栽と女
ピンポーン
「こんにちは、本日ご予約いただいたカフェ・ペルシュです」
恭一郎が玄関を開けると、そこにはスラリとした女性がいくつかの荷物とともに立っていた。
「こんにちは、若松です。本日はよろしくお願いします」
若松恭一郎の自宅は古い瓦屋根の大きな屋敷である。その家は子供の頃から祖父と住んでおり、昨年祖父が亡くなってから恭一郎が相続した。
祖父が長年育ててきた数々の盆栽と、その販売やメンテナンス業、そして月に一度のミニ盆栽教室も一緒に引き継いだ。
今までは祖父の手伝いで恭一郎がアシスタントやお茶の用意をしていたのだが、自分が教室を仕切るようになってからはそこまで手が回らなかった。
そのため、地元のカフェからケータリングを頼むことにしたのだった。
歳は三十前後だろうか、姿勢の良いその女は恭一郎の顔を見るとすぐに頭を下げた。
「担当いたします牧村と申します。よろしくお願いします」
自分と同じくらいの年頃のその女は牧村といった。
「地元でこんなことしてもらえるお店があって本当に良かったです。価格も良心的で助かります。今日はよろしくお願いしますね」
恭一郎は牧村を奥に案内し、キッチンと部屋の説明をした。
「では、お時間までにご用意いたします。本日はよろしくお願いいたします」
牧村は落ち着いた声で返事をすると手を前に合わせ、姿勢良く上半身を折り曲げてお辞儀をした。
所作の美しい女だな、と恭一郎はその時思った。
部屋とキッチンを彼女に任せ、恭一郎は縁側から庭に出た。四、五人の生徒が集まり、各々小さな鉢にちょこんと可愛らしい木を植えている。
一通り教室が終わると生徒と恭一郎は縁側から部屋へ上がり、牧村がセッティングしたテーブルについた。
そのテーブルの中央に恭一郎が鉢を一つ置き、改めて挨拶をした。
「今月から、地元のカフェに出張をお願いしました。皆さんお好きなものを選んでください。コーヒーを飲みながら、今月の鉢のお話をしましょう」
生徒がケーキや焼き菓子を選んでいる間、キッチンで牧村は丁寧にコーヒーをドリップする。
その香りがたっぷりと部屋にまで充満する頃、トレーにカップを乗せた牧村が入ってきた。
カップを並べ、コーヒーポットから注がれる香りはそこにいる全員の顔を緩めた。
自分がお茶の用意をしていた時にはこんな顔はさせたことがないな、と、つい可笑しくなった。
そんな空間を作った牧村の所作はやはり美しいように感じた。
「よろしければ牧村さんもこちらにいかがですか」
恭一郎は一段落ついた牧村に声をかけ、生徒と一緒のテーブルに座らせた。
「恭さん、今月の鉢は、先生のだね」
「そのとおりです。祖父が最後に手を入れていた五葉松です」
恭一郎が置いたその松の盆栽は、幹に針金が巻かれ、形を整えている最中のものであった。
盆栽は時に批判されることもあります。
特にこの五葉松のように針金で矯正されて、形を人の手で作るような場合です。
僕も初めて見たときは衝撃でした。細い枝を形作ることもそうですが、この幹のように、太くするための針金なんかは特に。
ねじ幹という手法ですが、完成するまでに十年はかかります。見る人によってはあまり気持ちの良いものではないかもしれません。
虐待と言われることもあります。過去に、知り合いからそう言われた生徒さんもいました。
ただ、盆栽はここまでしなくても楽しめますから。
だから皆さんもご自分の方法で、喜べる方法で楽しんでいただけたら良いなと思っています。
僕は祖父と祖父の鉢と暮らしていましたので、やはりこれを美しいと感じます。子どもの頃から見てますから。
もし、もっと深く知りたいという方がいたら、ご相談ください。祖父から教わったことをできる限りお伝えしますので。年に数回、ベテランの方との会もありますので、そちらをご案内します。
「先生の鉢は手がかかる子達ばっかりだからね。恭さん、大変だ」
「まったくです」
お茶の時間が終わり、生徒たちが帰った部屋で牧村は片付けをしている。
ふと、さっき恭一郎が話していた五葉松に目が止まった。
鉢から生える幹は根元が太くがっしりとして、途中でグニャリと曲がっている。その幹には、針金が食い込み、一部は飲み込まれていた。
締め付けられた肉が裂け、メリメリと音が聞こえてくるようだった。
初めて見るその世界は奇妙で少し恐ろしかったが、恭一郎の話を聞いて、その怖さはすぐに消えてしまった。
「不気味ですよね、それ」
振り返ると、生徒を送り出して戻ってきた恭一郎が立っていた。
「いえ、そんな」
「それが普通の感覚です。整えられたあとの盆栽が美しいのは理解できても、こうして雁字搦めの木を美しいと思う人はあまりいません」
「では、私は普通じゃないかもしれませんね」
「牧村さん、平気なんですか?」
「平気、というか。初めて見たときは恐ろしいと思ったんです。でも、お話を聞いていたら、何だか羨ましくて」
「羨ましい、この松がですか?」
牧村は手を伸ばし、食い込んだ針金をそっと指先でなぞった。
「十年、これが出来上がるまでずっと目をかけて、手入れして、水をやったり、日に当てたり、毎日毎日愛しているんだなと思ったら、この子が羨ましいと思ってしまったんです」
恭一郎は目眩がした。
この姿を見て、同じ世界に住む人間ならいざ知らず、何も知らない普通の人間が口にする言葉とは思えなかった。
「この子はこの先、どうなるんですか?」
牧村の問に恭一郎は唾を飲んだ。
「見てみますか?その先を」
庭に出て、祖父が長い間世話をしていた鉢の前に、牧村を案内した。
「左は、あれよりさらに五年ほど、今年十年目です。もうほとんど幹の中に針金が飲み込まれていますが、枝はまだ少し調整したいので、ときどき巻きなおしています。右はおそらく僕よりも長く生きているはずです。物心ついた時にはここにありました。根本は岩のようにゴツゴツして、枝ぶりも見事です。僕は祖父がこれに手を入れている姿を見て育ちました。この幹の中に針金が全て飲み込まれて行くのを見ていましたよ」
その松達はみっちりと太った幹に、腕のような枝をしなやかに伸ばしていた。
十年物の幹はまだ初々しさを残し、枝には針金が巻き付いて窮屈そうだ。
恭一郎よりも年上だという右の鉢はさらに大きく、たっぷりとした体をくねらせて踊るベリーダンサーのように妖艶だった。
「若松さんが針金を巻くんですか?」
「もちろん、祖父の代わりにこれからは私が全てを世話します。小さな頃から祖父に習ってきましたから」
「じゃあ、あの子はこれから何年もかけて、あなたの理想の形にされるのですね」
それは・・・
言いかけて、恭一郎は一瞬だけ躊躇ったように見えた。
「それは・・・どうでしょう。僕のやり方は祖父のやり方です。僕の理想なんて、ありませんよ」
「そうですか・・・」
恭一郎が悲しそうに言った気がして、彼女はそれ以上続けることはなかった。
牧村が去ったあと、恭一郎はテーブルの上の鉢を見ながら、彼女が入れてくれた最後の一杯を飲んでいた。
『これから何年もかけて、あなたの理想の形にされるのですね』
牧村の言葉が突き刺さる。
「僕の理想の形?」
そんなものを考えたことはなかった。
祖父のやり方を守っていれば間違いがなかったからだ。
『この子が羨ましいと思ってしまったんです』
食い込んだ針金をなぞる牧村の指先が頭から離れなかった。
その夜、恭一郎は牧村の夢を見た。
夢の中の彼女は鉢の上に立ち、太い針金を巻きつけた身体をぐにゃりと曲げ、苦しそうに眉を寄せている。足も腕も針金が巻かれ美しく伸びている。
喉の奥から呻くような声が聞こえる。
一人の男が牧村に巻かれた針金を、少しずつ変形させ、巻き直している。その度、彼女の顔は苦痛に歪み、針金がめり込んだ肌は汗でじんわりと湿っていく。
たまらず恭一郎はその男の肩を掴んで止めた。
だが振り返った男は、恭一郎のよく知った顔だった。
「おまえは、僕じゃないか」
男はニヤリと笑うと牧村に向き直る。
そしてまた、彼女に巻き付いた針金をグイグイと調整するのだった。
そしてその男はまるで獣に取り憑かれたかのように、針金の間で軋む牧村の身体を貪っているのだ。
苦痛に歪んでいた彼女の顔は、いつしか恍惚として目は虚ろに漂い、唇から漏れる声は甘く恭一郎の耳に響いていた。
もう一度男を引き離そうと掴みかかった。
男が振り返える。
その途端、自分が消えたのがわかった。
恭一郎はその男になっていた。
それからしばらくして、牧村はまた同じ場所にいた。
不自由な形に拘束された牧村が、恭一郎の腕の中で身体をくねらせ艶々と光り、ときどき苦しそうに眉を寄せる。
しかしその顔はうっとりとして、喉の奥からは甘い溜息が絶え間なく漏れていた。
近くにはあの松の鉢が置かれ、それは二人をじっと見ている。
松が針金を飲み込むのと同じように、牧村もまた、恭一郎を飲み込んでいくのだった。
End
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