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走る女がいた。
皮がはがれかけていたので、
「はがれてますよ」
と言おうとするが真剣な顔をしていたので言いそびれる。
厚化粧で、色が白く、目が細く、髪型こそは人間らしいが、はがれていた。
女は通勤の朝によく見掛ける女だ。
いつも切羽詰まったような追われるような様子で目に付いた。
「あっ」
女がつまずくと一気に皮がはがれ、四つ足でものすごい速さで走り去っ
ていった。
女は白狐だった。
くしゃくしゃになって落ちている皮を見ると、私は衝動に駆られた。
私は周囲を確認し、とっさに皮を拾い上げ、バッグに入れた。
午後になると会社に直帰する連絡をいれ、いそいそと帰ってきた。
まず、部屋で皮を縫い合わせ、かぶる。
皮はひんやりとしていて肌にぴたっと吸い付いてきた。
皮は白かったが張り付くと肌と皮の境目がわからなくなった。
鏡を覗いても、姿は人間のままだったので、
「なーんだ」
と、呟いたはずが、
「みゃーぉ」
としか言えない。
思わず、もう一度、鏡の中を覗くと、三角のかわいらしい耳が頭の上にピンと付い
ている。
頭に手をやり、触るとふわふわした毛まで生えている。
人間の耳も元の位置についているので、耳が四つになったのである。そのせいか、先
ほどから小さな音が気になり始めていた。エアコンの音、時計の秒針のカチカチと言
う音がやけに気になる。
気をとり直して、帰宅して、夕食に煮物とアジの開きを焼いた。
アジの焼ける匂いがたまらなく美味しそうだ。
グリルを開け、アジをひっくり返そうとするが、菜ばしがうまくつかめない。
「あれっ」
と思うと、
「ミャー」
という声になり、右手をみるとかわいらしい肉球が小憎らしいほどリアルについて
いた。
左手はまだ人間らしい手だったので、左手で菜ばしをつかみ、やっとのことでひっく
り返した時には、こげていた。
「みゃーみゃー」
と文句にならない文句を言いながら一人で食べた。
みゃーとしか言えないくせに、いつも通りにテレビを見ながら食べていた。
気がつくと、舌に骨が刺さっった。
鏡の前に恐る恐る立ち、口をあけると舌の真ん中に大きな骨が刺さっている。エ
イッと力いっぱい抜こうとすると、痛みが走って涙がでた。
仕方なく諦めて、とりあえず歯を磨くことにした。
肉球にも少し慣れてきた。
このまま寝てしまうと、明日の朝には完璧に猫になってしまうと思い、ながらも何も手につかず、ベッドの上でごろごろしながら考えた。
「あぁ、化けの皮を脱げばいいんだ」
という単純な解決策にやっとたどり着き、腕まくりをした。
少しふさふさとした猫毛が生えてきていたが、まだ人間らしい肌色も健在だ。
肌色の皮膚をつまむ。痛い。
猫毛を引っ張る。やはり、痛い。
悲しくなり、もうどうにでもなれと寝てしまった。
夜中に怖い夢を見て目を覚ました。
いつもあおむけに寝るはずが、今は丸くなっている。
ますます猫めいてきた自分に気付き愕然とした。
翌日は会社へはいけないな、なんと言って休もう?いや、休んでもどうにもならないなら辞めてしまったほうがすっきり諦めがつく。友人、両親にはどう話そうか。
あぁ、ミャーとしか言えないんだった。手紙を書こうか?はて、字はかけるか?
そうなことをぐるぐる考えているうちに眠ってしまったようだ。
「ジリリージリリ」
けたたましくなる目覚し時計にびっくりして手をのばすが、的外れなところにし
か手が届かない。
バシン
やっとのことで時計をたたきつけると手の短さに驚いた。
「ミーャ」
と伸びをして、恐る恐る蒲団をはがすと、全身猫になっていた。
三毛になるような予感がしていたが、違っていた。
全身グレーの短い毛で覆われ、目は黄色く、足先だけがなぜか白く、靴下を履いてい
るようなしゃれた模様だった。
私は人間の頃から寝起きが悪く、起きてからもしばらくぼーっとて動けない。
いつものようにぼーっとしていたつもりが、腕をぺろぺろとなめていた。
そのとき、舌に刺さった骨が毛づくろいに役立つことに気付いた。意外に気持ちいい。
その時、もうこのまま猫でもいいのではないかと思った。
手始めに、ベットに置いてあった丸っこいぬいぐるみを手で転がしてみた。鏡に映る様子がいかにも猫らしくて愛くるしいことに嬉しくなった。
人間の頃の私は、極端な猫好きではないものの、犬派?猫派?と聞かれれば猫派と即答していた。
猫がおもちゃで戯れているのが可愛くて、暇さえあればそんな動画を見て癒されていた。それが今は鏡越しにいつでも見れる。
そのうちに動くものが気になり始めた。
風に揺れるカーテンや観葉植物の葉っぱにじゃれて遊ぶ。
せっかくかわいらしい姿をしているので記念写真を撮ろうと思い立った。
スマホで自撮りできるほど腕が長くは、ない。鏡に映る姿を撮ろうと角度を調整する。
いざシャッターを切ろうとすると爪だと反応しないし、肉球だとうまく押せない。こんな時にタッチペンがあってよかった。何とかタイマー撮影に成功し、かわいく撮れた。
日当たりのいい窓辺で伸びをしている写真が我ながらかわいすぎて、待ち受けにした。
外から子どもたちの声がする。
通勤通学の時間帯になるとこのマンションの前の道は人通りが増える。
会社の同僚や友人、昔の恋人を思い出し、鏡の自分の姿を見て、うつむいた。
人間らしいことと言えば、二足で直立することだけは、できた。
キッチンには、お弁当用に昨日焼いておいたアジがあったので、しばらくはそれを食べることとした。
固くなっていたが構わなかった。
気が晴れないので、散歩に出る。猫らしく歩く。
田中さんはゴミ出しをしている、
杉田さんはご主人と喧嘩なんかしている、
スズメは隣の庭の巣箱でちゅんちゅんとさえずっている、
木村くんのおぼっちゃまは名前の知らないいつもの友達と試験勉強の話をしている、
毎朝見かける老夫婦は手を繋いで楽しそうに散歩している。
どうも知った顔が多すぎて、劣等感に浸ってしまい、すごすごと戻ってきた。
どうにか、あの化けの皮がはがれないかと思案し、皮を落としていった白狐の女を捜してみることに思い至った。
女は毎朝、7時50分に駅前を通っていたはずだ。
時間に合わせて駅前に行くとごみごみしていた。踏み潰されそうになりながら、歩く。
女を見つけた。
その瞬間、「危ないよ」知らないおじさんに抱き抱えられて端っこに連れてゆかれた。
(せっかく見つけたのに、もうなんて事するの?)
目を皿にして行き交う人々を見ていた。
すると、信号待ちをしている人間の中に、例の女を見つけた。足元にすり寄ってみる。
最初は少し動揺した表情を浮かべたが、知らないふりをする。しかし、頼れるのはこの女しかいない。辛抱強く毎日、続けた。
四日目。しつこく擦り寄ると、女は目配せをして、ひとけのないところへ行く。
付いていくと、話し掛けてきた。
「あの日、皮を拾ったのはあなたなのね?」
女は目が細く釣り上がっていたが、案外と優しい声をしていた。
「返してくれるの? 脱ぐ時、少し痛いけど平気?」
ミャオミャオ
「じゃあ、ついてきて」
何日か振りに「人」と会話をできたことが嬉しかった。
公園の植え込みに近いベンチに女が座る。
私も抱きかかえられ、ベンチに猫らしく座る。
このポーズも写真におさめたいところである。
「この皮、貴重なのよ。お狐さんから譲り受けたものなんだけど、一枚足りなくて大変だったわ。
周りにたくさん人がいたし、破れかけていたからあきらめて、新しいのを作ってもらったんだけど着心地が悪くて。
これ、私のお気に入りだったの。
人間が着ると猫になるとはね。母から聞いたことあるけど。それにしてもあなた、しゃれた模様ね。
この姿で何日も過ごして、いろいろ大変だったでしょ。」
二人きりになると女はよくしゃべった。
しゃべりながら頭や喉を撫でられて安心して女に身を任せようと思った。
女は革の匂いのぷんぷんする黒いバッグから、はさみを取り出し、しっぽをつかんできた。ものすごい力で押さえつけられじんじんしてきた。
全身の猫毛が逆立つ。
「ちょっとだけ我慢してね」
はさみがギラギラひかりながら視界の隅に消えた。
チョキン
全身に激痛が走った。
「もう大丈夫よ」
「ドコガタイジョウブナンデスカ、イタイデスヨ」
むにゅっという変な音とともに皮がはがれ落ち、人間の姿に戻った。
すぐに痛みは治まった。
「ありがとう」を言おうと振り向くと女の姿は、そこにはなかった。
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