陽だまりのクッキー

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 肌にまとわりつくような雨が続いていた。梅雨どき特有のじっとりした雨は身体の中にまで滲み込んできて、気分を一層不快にする。部屋干しの洗濯物まで不快指数を加速させていた。  窓ガラスにあたって下に流れる雨を、猫が鬱陶しい顔で眺めている。外には出ないのに、猫でもこんな天気は気分が落ちるのかと思った。  彼女はうちの飼い猫ではない。なので名前もない。彼女と言ったが、猫を飼ったことがないのでメスだという確証もない。ただオスにあるべきものが付いていないだけのことだ。  アパートの2階なのに玄関のドアを開けたらふらりと入ってきた。ふらりと入ってきたので、またふらりと出ていくのかもしれない。別に邪魔でもないので追い出さずにいたら、もう2週間もたっていた。  そろそろ名前でもつけてあげようか。雌でも雄でもいいような名前。テーブルの上に食べかけのクッキーがあったので、なんとなくクッキーと声に出して呼んでみた。すると、ずっとそう呼ばれていたかのように、顔を上げてこちらを見ている。用事もないのに呼んでしまったので、申し訳ない気持ちで”おやつ”を取りに立ち上がった。  彼女はおやつがキッチンの流しの上に取り付けられている吊戸棚に入っているのを知っている。その場所に近づくと、確信に満ちた感じで起き上がりキチンと座りなおした。ちゅ~〇という言葉に異常に反応するので、彼女の前では禁句だ。だが賢い彼女は、私の一連の動作でそれを貰えることを察知したようだ。  ちょっと首を左右に傾けながら、細長い袋から絞り出すように器用に食べる。こちらも手でしごきながら、少し手伝ってやる。「おしまい」と言って、なかなか離さない空の袋を口から引き離した。  いつまでも、しゃぶっていたせいで袋には、鋭い歯で開けた穴が無数についていた。ゴミ箱に捨てるのを見届けてから、きのう買ってあげたドーナツ型のクッションに、くるりと一回りして入り居心地を確かめてから昼寝の続きをする。肌寒い気がして、くたびれて捨てるはずだったブランケットをかけてやる。  そうか、彼女は雨が嫌いなのではない。日向ぼっこができないのが寂しかったのだと合点がいった。何よりもお日様が大好きなのだ。窓から入る日差しに合わせて、昼寝の場所を変える。彼女は暖かい日も寒い日も変わらず、お日様を纏っている。  抱きしめて背中に顔をうずめると陽だまりの匂いがする。ちょっとの間ならじっとしているが、10秒くらいが限界だ。暴れて腕からすり抜ける。抱っこは苦手だがブラッシングは好きだ。ブラシを手に取ると、ゴロンと横になる。かゆいところにブラシが当たるように、芋虫みたいに体をくねらせる。ドンピシャなところに当たると恍惚の表情になる。前足を小刻みに動かして、そこそこと教えてくれる。  若いのか年寄りなのかもわからない。動作が怠惰で、なにをするにもスローモーションのようだ。退屈そうなので羽のついた猫じゃらしを買ってきて、顔の前で振ってみたが興味がないらしい。なんだ、食べ物じゃないのかと言わんばかりに鼻であしらう。猫がじゃれない猫じゃらし。詐欺じゃん・・・か。  好き嫌いがあるのかと思って何点か買ってみたが、どれもお気に召さずにお蔵入りとなった。意地になって高額な電動で動くおもちゃを買ったが、横目でチラっと見ただけで私をがっかりさせた。獲物を捕る習性の猫に合わせて羽のついた棒がクルクル回るのだが、近くに寄り付きもしない。ちょっとムキになって回転を早くしてみたら、モーター音に驚いたようで箱を蹴飛ばして押し入れに隠れ2日間も籠城した。楽しんでもらおうと思って買った玩具で、恐怖を味あわせてしまった。  ある日、用済みのトイレットペーパーの芯をゴミ箱に投げたら、的を外し外側の淵に当たって転がった。それに脱兎のごとく飛びつくと、前足で器用に転がして部屋中を縦横無尽に駆けまわっている。はじめてみる彼女の機敏な動作を、しばらくポカンと眺めていた。こんなに走り回れるほど元気なんだと安心した。  ちなみにペットボトルの蓋も好きだ。これもうっかり落としてしまったのを見逃さず、カラコロと転がして遊んでいた。冷蔵庫の下に入り込んで、必死に片手を入れて取り出そうと懸命な姿を見て、興味を持たれずどこかに雲隠れした猫じゃらしのことを気の毒に思う。  彼女は初日に布団にもぐってきて腕枕で寝た。動かせずに腕が棒のようになったので、タオルを畳んで枕を作った。気に入ったのかどうかはわからないが、その即製の枕をいまも愛用している。布団の中に彼女がいると、潰してしまわないかと心配で寝返りも思うようにできない。先に布団に入っているときの彼女は大抵ど真ん中で寝ている。そんな時はなるべく小さく縮こまって、申し訳なさそうに布団に潜り込む。そんなことも知らずに小さい寝息を立てている彼女におやすみと呟いてみる。ピクっと手の先を動かして、また深い眠りについた。  Amazonで買った猫砂が玄関先に置き配されていた。スーパーで買うとかさばるし、すぐになくなるので箱買いした。コンビニでバッタリ会った隣人と一緒に帰宅したら、その箱を見て猫を飼い始めたのかと尋ねられた。迷い猫だと説明したら、階下で飼っていた猫かもしれないと言う。引っ越し先がペット禁止で飼えないという理由で、飼い主が置いていったらしい。  隣人は猫が好きで、いつまでも鳴いている猫を放っておけなくて探していた。だが人の気配がすると逃げられてしまい捕獲できなかった。たぶん、うちにいる猫はその捨てられた猫だ。人慣れしているので野良猫ではないと思っていた。  私は猫に選ばれたのかもしれない。そう思うと隣人には悪いが、内心ほくそ笑んでしまう。隣人も可愛がってあげてねとは言ったが、私が先に探していたのにとかの理不尽なことは言わなかった。こうして晴れて同居人ではなく同居猫となって、気に入っているのか気に入らないのか確かめる術もなく、彼女の正式名称は”クッキー”となった。  相変わらず陽だまりの中、至福の寝顔で一日を過ごしている。最近は、くぅくぅ寝てばかりいるので、クッキーではなく「くうたん」と呼ばれることのほうが多い。だが、彼女はそのどちらにも返事はしない。
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