蛇帯

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 時を少し遡り、真奈美達が音を立てずに望の部屋へ向かってすぐのこと。友香里は居住まいを正すように座布団へ座り直したところへ、望の母が三人分のお茶を盆に載せて持ってきた。余程、注意力が無くなっているのか、お茶の入っている容器は湯飲みだったり、ティーカップだったり、果ては普段使いであろうマグカップに入れられてテーブルに並べられた。テーブルに並べられて初めて気が付いたのか、彼女は力なく顔を上げ、友香里の隣を見やる。 「ごめんなさいね、こんなものしか無くて。あら、あの子達は……?」 「あ、手ぶらでは何ですからお菓子を買いに行きましたよ」 「あら。そうなの」  友香里の嘘を望の母はあっさり信じた。本来の精神状態でなら、他人の家に行ってから手土産を買って来るなど、そんな非常識なことをする客として違和感を覚えるだろうが、望の母はそれどころではないらしい。『よそのお母さん』という仮面を被るのにも苦労している様子で、それ以上、追及はされなかった。内心、弱っている人を騙しているような心持ちがして、友香里は罪悪感から顔を伏せてしまう。 「あの、望、ちゃんのことなんですけど……」 『望ちゃん』という単語を出した瞬間、みるみるうちに彼女の目は潤み、それは大粒の涙となっていくつも頬を伝った。ほんの少しの間、そうしていたかと思うと、わっと望の母はテーブルに突っ伏して号泣し始めた。 「ごめんなさい……っ! ごめんなさい、望ぃ! 私が……全部私が悪いの……っ! なんにもっ、あの子が悩んでるなんて、なんにも気付かなかったバカな私を許してぇええ……っ!!」  縋るような悲痛な泣き声を聞かされて、友香里は捨て置ける程、冷酷にはなれなかった。むしろ、こんなに自分の母を泣かせ、苦しませる望に腹が立ちさえした。自分にできることは本当に何も無い。けれど、これくらいはしてもいいだろうと、彼女は泣いている望の母の背中をおずおずと撫で始めた。子供を失った母の辛さは、まだ高校生の友香里にはよく分からない。けれど、自分が死んだらきっと自分の母も同じように泣くのだろうと思うと、慰めずにはいられなかった。彼女が泣いている間、真奈美達が戻って来たら大変だと思った彼女は、そっと廊下への引き戸を閉めた。  暫くそうしていると、そのうち望の母は少し落ち着いたのか、涙声で「ありがとう」と言い、友香里の手から離れる。泣いている間、友香里が手繰ったティッシュ箱から一枚取って、涙を拭う。 「ごめんなさい、みっともないところ見せちゃって。はぁ……ほんと、ダメな母親ね」 「いえ、そんなことないです。こういう時は、みんな辛くて当たり前ですから」  友香里の言葉に望の母は意外そうに瞠目したが、それはすぐに羨望の眼差しに変わる。 「優しいのね、あなた。――ごめんなさい、あなたのお名前を知らなくて」 「あ、私、遠藤友香里です」 「友香里ちゃん……。ええ、望もそうだったのよ。あなたと同じように心の優しい子でね。私、何度もあの子に助けられてきたの」 「望ちゃんも、お母さんのこと、大好きだったんだと思います。だから、分からないようにしてたんだと思いますよ」 「分からないように?」 「……さっき、おばさん。『気付かなかった』って言ってましたけど、それは望ちゃんがそうしてたんじゃないかなって思います。お母さんに迷惑とか心配かけないようにって」 「そうかしら」 「きっとそうですよ」  その言葉に望の母は「そうよね」と少しだけ表情が明るくなる。その変化を逃さずに友香里は「そうですよっ」と努めて彼女の明るさを後押しするように言った。 「少しでもおばさんに心配掛けないようにって、隠してたんだと思います。だから、おばさんもその気持ちに応えてあげたら良いんじゃないかなって、私、思います」 「望の気持ちに応える……。そうね。あなたがそう言うなら、そうなんでしょうね」 「望ちゃんの気持ちに応える為にも、強く生きて行かなきゃいけません。だから、元気出してください」 「ええ、ありがとう。友香里ちゃんみたいな子に会えて良かった」  少しだけ吹っ切れたような顔をする望の母を見て、友香里は内心ほっと胸を撫で下ろした。玄関で見た彼女は、今にも死んでしまいそうな程、精神的に追い詰められていたように見えたからだ。その時、二階から何かが割れたような音が響き、二人がそちらへ目を向けると、間もなく真奈美と絢の二人が非常に慌てた様子で飛び込んで来た。二人とも顔色が悪く、青ざめている。しかし、手にはしっかりとそれぞれの靴があり、すぐにでも出て行ける準備だけはしてある。二人の様子からもうこれ以上の長居は無用だと判断した友香里は、何か言及される前にさっと立ち上がった。 「で、では、すみません。お邪魔しましたっ。もう遅いし、私達これで失礼します! あの、おばさん。気を確かに持ってくださいね? 私、また来ますから」  訊きたいことは色々あるが、友香里の言葉に励まされて望の母は「え、ええ」としか答えられない。非常に慌ただしく、友香里は青ざめて何も言わない二人を連れて、出て行った。  二階から破砕音がする前、真奈美は最後のページを捲る。それまで散々『あの人』への恨み言が口汚く書かれていたページの先には、ある一文のみが書かれていた。その一文の周りには指で何度か擦ったのか、酸化した血だろうと分かる茶色い汚れが一文を囲むように付着していた。  これで私はあの人を 「……何なの、これ」  悍ましい感情の果て。それだけしか書かれていないそのページから何かとても強いものを感じた真奈美は、ふと視線を感じて顔を上げた。大きな窓の向こう、ベランダに『それ』はいた。  顔は見えない。逆光になっているというだけではなく、顔だけが真っ黒な『それ』は真奈美の目には影のように見えた。窓の外から真っ直ぐこちらを見つめ、かりかりとまるでこじ開けようとしているかのように右手の指で引っ掻いている。いつの間にかそこにいた、という事実と初めてこの世の者ではない者を見た衝撃は思ったよりも大きく、彼女は初め『それ』が何であるか、理解しきれなかった。『それ』に釘付けになっていると、真奈美の様子に気が付いた絢が同じように窓を見る。絢にも『それ』は見えた。真奈美を食い入るように見つめ、憎悪すら感じる一切光の無い目。透明な窓ガラスには大きな罅が入り、『それ』が中に入ろうとしていることに気が付くのに数秒も掛からなかった。咄嗟に真奈美の手と二人分の靴を引っ掴み、絢は蒼白な顔で階段を駆け下りる。次にがしゃんっ、と窓が割れる音が響き、リビングへ飛び込んだ絢は無言で友香里を数秒見つめ、何も言わずに玄関へ向かう。ただただ頭の中で「逃げなきゃ」という言葉だけが彼女を支配していた。  望の家から離れ、漸く知っている道に出て初めて絢は走るスピードを落とし、止まった。肩には同じように顔面蒼白の真奈美。後ろからは走り疲れてへろへろの友香里が息を乱しながら何とか付いて来ていた。彼女はやっと止まった絢の前まで来ると、途端に両手を膝に付く。 「ぜぇ……はぁ……はぁ……へぇぇ…………。きゅ、急に、どう、した、の。絢……」  元来、あまり体力が無い友香里の息切れ姿を見て現実を認識した絢は、真奈美の腕を下ろし、近くにあった家の塀に背中を預けて座り込んでしまった。真奈美もゆっくりと立ち上がり、依然として青い顔のまま、友香里に手を差し伸べる。彼女も絢と一緒に走ったせいですっかり呼吸が乱れていた。 「大、丈夫……?」 「それ……こっちの、セリフ。はぁ……」  少し呼吸が落ち着いたところで座り込んでいる絢に近付き、友香里は何があったのかと問う。絢と真奈美はふい、と顔を上げてただ一言だけ言った。 「望に会った。あいつ、私らのこと見てた」
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