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主役とハリボテ
時計台を縁取る夜空は、春らしいというよりも都会らしい、人工的な風情を纏っていた。まるで、踏んでも沈み込まない、硬い敷布のようだった。
星の明かりを探そうとしても、まず眼に入ってきたのは、飛行機の灯りだった。それが、駅の向こうへと落ちてしまうと、どこか埃っぽい星がいくつか浮き上がってきた。
一カ月前に引っ越してきてからというもの、この場所が故郷と地続きにあるとは到底思えなかった。冬の寒さに至っては、想像すらできない。
「陽二、お待たせ」
ひっきりなしに聞こえてきていた、電車の発着音のうち、彼女の乗っていたものはどれだったのか、ということを考える隙ができてしまったのは、本当に待たされすぎたからだろう。
優子は、人違いだったかもしれないと、少し不安そうな顔を見せた。この大都市では、ぼくをぼくであると同定する根拠が、乏しくなっているのだと思う。似たような人なんて、探せばいくらでもいるだろうから。
「じゃあ、行こうか」
人の数と不相応な歩道の狭さは、並んで歩くのには窮屈だった。
ぼくが先頭に立ち、優子がその後ろを押し黙ったまま付いてきた。店に着けば、この息苦しさから逃れられるだろうと信じて、駅から十数分の道のりを、まるで他人のような距離をして歩いていった。
ぼくの英語力が壊滅的であるということを知ったのは、大学院入試に失敗したときではなく、中学生のときに一年間ひきこもり、その後、ようやく学校に通い出したころだった。
もちろん、その他の教科も同級生から遅れていたのだが、英語だけは、もう取り返しのつかないところまで進んでしまっていた。
その後、英語の成績が回復することはなかったから、地元の高校を受けるのは諦めることにした。偏差値のさほど高くない、県北部の高校を第一志望にし、勉強の末になんとか合格した。
そこは、壊滅的な英語能力のぼくでさえ、優秀な成績をたたき出せるような高校だった。クラスメイトたちからは、まるで秀才のように扱われた。
そうなると、その扱いに応えなければならないと思い、テストの合計点で上位に入るように勉強をするようになった。その甲斐があってか、卒業後、四年制大学へと進むことができた。
あの高校は、美術に力を入れている変わったところで、時間割に当たり前のように、デッサンやデザインの授業が組みこまれていた。かといって、専門学校のように毎日あるわけではないので、中途半端なスキルしか身につくことはなかった。
それでも、美術部に在籍している人たちは、県のコンクールで結果を出していて、朝礼などで賞状が手渡されている光景は、見慣れたものだった。
高校生というのは、性にまつわる冗談を言いたがる。
高潔を主張するわけではないけれど、ぼくはその輪のなかへ入り、性的な単語を専門用語のように使い、会話をすることは一度もなかった。ぼくには、友人と呼べるひとがいなかったから。
丁度いいことに、勝手につけられた秀才キャラのおかげで、休憩時間にぽつねんと本を読んでいたところで、誰もなにも言ってこなかった。
それでも、好きなひとができてしまうのは、しかたのないことだった。
だけどぼくは、ハリボテの秀才であるということを除いて、魅力的に受けとってもらえるものがないと、自分でも分かりきっていた。叶わぬ恋だと、決め込んだのだった。
「思っていたよりヘンな味はしないね。ふつうに美味しいお肉。変わったものを食べているっていう感じはしないかな」
ワニの肉を食しているということは、生きていたころの形に似せて盛り付けられていることから、辛うじて分かることだった。
「こっちも、ワニって知らなかったら、焼き鳥に思っちゃいそう」
鶏肉を鰐肉に変えて作った串は、見た目からして、焼き鳥と変わるところはない。
決して広いとはいえない、さほど明るくもないこの店に入ってから、ぼくたちがまず交わしたのは、お互いの身の上の話だった。
「大学院で使う英語って、陽二には難しすぎるんじゃないの?」
あのころ、ぼくがホンモノではなくハリボテだと見抜いていたのは、優子だけだった。だけど、ハリボテであることを嗤いもしなかった。
「なんとか喰らいついているけど、周りと比べれば、及第点っていう感じだろうね。優子の方は、順調?」
「順調とは言えないけど、仕事はポツポツときてるよ」
優子を前にしていると、校長先生から賞状を手渡されているときの、凛としたあの姿がよみがえってくる。今日も舞台に上がってほしいと、朝礼のたびに祈っていたことを思いだす。
〈了〉
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