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「たいむ・すりぷ」の男の事
これは京極若狭守様にお仕え致しております、私の甥から聞いた話の一つで御座います。若狭守様と言えば、いかなる鳥獣もひれ伏す御威光と、数えきれぬほどの逸話を併せ持ったお方だという事は、今更申し上げるまでもありますまい。
城下に見える桜の中で、一番早く咲き最も遅く散るかの不可思議な桜をお伐りなさりました時の事はもちろん、見るも恥ずかしい鎧を身に纏った剣士と御前試合をお開きになられた事に、太良荘に夜な夜な現れて妙なる笛を吹く市女笠の女と一夜を共にした事に、将又、この國を訪れた得体の知れぬ好色の男から、私どもをお救いになられた事に……それらの逸話を一々数えたてておりましたら、限られた時間を、瞬く間に埋めてしまいかねません。
ともかくも、この度は、私の甥から聞いた、小浜の海に流れ着いた風変わりな男が、若狭守様のご恩情により救われて、臣下の一人となった次第を、お話しさせて頂く事に致しましょう。
その奇怪な一事が起こったのは、まだ残暑が厳しい頃の事で御座います。ある日、若狭守様のご意向により、入江を見渡せる高台で酒宴を催すことと相成りました。私の甥は、若狭守様の命を受けて、漁夫たちに、両手で抱えるほどの魚を捕るよう言い付けました。すると、一艘の舟が沖に出ることもなく引き返してきたかと思うと、見慣れぬなりをした男が正気を失しているのを拾ってきたと申すので御座います。
しかし、若狭守様はお驚きになることはなく、扇を掌で叩くと、正気が戻るまで看病しておくようにと、有り難いご恩情を下されました。
さて、それから三日が経ち、その男は眼を開きましたが、すると、奇妙な言葉を並べ立てるので御座います。これに唖然とした周囲の者達のうち、何人かは――殊更、私の甥は――凶兆を察し、鴎尻に佩いた太刀を鞘から抜きだし、男の首を目がけて大上段に構えました。するとそこへ、若侍が参りまして、其奴が申すところによると、男を御前へと引き連れてくるよう、若狭守様から仰せつかったとの事で御座います。
さて、いざ男を目の前にしますと、若狭守様は片膝を立てて、何者であるか白状するよう、お申し付けになりました。すると男は、こちらには分からぬ言葉を、相も変わらず並べ立てるので御座います。なにやら、「たいむ・すりぷをした」だの、「おれはみらいじんだ」だの、「とらくにひかれた」だの……私の甥は、首をかしげるしかなかったと申しておりました。
すると若狭守様は、一座を扇で指さしたかと思うと、「そなたは、この者どもにはできぬことができるのであろうな」とお訊ねになりました。それを聞いた男は、一度、おずおずと後ろを振り向きましたが、その顔は青ざめたままで、か細い声で「できませぬ」と申したとの事です。
それを聞いた私の甥が失望をしたのは言うまでもありません。いままでこの國へ現れた奇怪な者たちは、格別な力を持ち合わせておりましたから。それに、いくら若狭守様と雖も、なんの芸も力も無いとすれば、即刻、この男に打ち首をお言い渡しになられましても、おかしくは御座いません。
そこで、私の甥が恐る恐る若狭守様の方をお窺いしましたところ、なんと、爽やかな春の空のように、晴れ晴れとしたお顔をなされているので御座います。そして、扇をお開きになり、「よい、よい、そこいらに預けておけ」という有り難いお言葉を授けられました。それを聞いた男の安堵した顔ほど、醜く見えたものは無かったと、私の甥は申しておりました。
その男は名を「けんじ」と申しましたが、若狭守様は頻りに「けんじ」を近くにお召しになり、「みらいじん」の風俗について、お聞きになっていたとの事で御座います。次の間まで、若狭守様がお笑いになる声が響いてきた事も、度々だったと聞き及んでおります。
そういえば、ある時、若狭守様が、私の甥に京へ遣いに行くようお命じなさったことが御座いましたが、出立の前に、「何かおもしろき事があったならば、我にとおく致せ」と、お言いつけになりました。その「とおく」というのが「みらいご」であることは、申し上げるまでもありますまい。
しかし「けんじ」は、翌年、若狭守様の命により、一転、打ち首と相成りました。勿論それは、お上を罵る言葉を並べ立てたからであり、決して、「けんじ」を連れ戻しに来たという娘に、懸想なされたからでは御座いません。
その娘ですか?――その娘の事については、また今度お話し致しましょう。いや、娘はもう、奥方様のお一人で御座いますから、「ありす様」とお呼びしなければなりませぬ。ともかく、私はここで、お暇させて頂きましょう。
〈了〉
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