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スーサイドショップの人魚
不老不死と言われる人魚を殺す特効薬は、恋なのだという。
昔、店の一番奥にある狭い水槽の中にいた、深海魚みたいな人魚が教えてくれた。
「薬ってなんだよ、毒薬ってこと?」
「まあ、似たようなものだわな」
「なんで恋で死ぬの」
「人魚の恋は言葉を詰まらせる。言葉が喉に詰まりに詰まって、窒息するのさ。そうして人魚を死に至らしめた想いは、全身に回り、爆ぜて体を泡にするのだとか」
「ふうん、変なの」
「人間の基準だろう?それは。似ているようで、我々は違う」
そんなことを話していた人魚は、結局恋では死ねず、灰になることを選んだと聞いた。人魚が灰になるまでには、さんざん水分を奪って干からびる過程があるから、さぞ苦しかっただろうと店長は話していた。そうまでして死にたい気持ちは、まだ僕にはわからない。
人魚は魚と違い、体がひどく頑丈で、朽ちるまでに長い時間がかかる。そのため、うっかり自分の器に別の魂が入り込まないよう、屈強な精神でもって肉体を守らないといけないのだとか。
例えば灼熱の海底火山に潜ったところでその鱗は焼けることもなく、ただ少し声帯を焦がして声が濁った程度だった、と語った人魚もいたらしい。本当か嘘かは知らない。だからこそ、肉体を早々に滅ぼす死に方は、人魚にとって喉から手が出るほど欲しいものだという。人間とはまた、違う意味で大変そうだと当時は思ったものだ。
「おかげでうちの店の一番の太客は人魚族さ。まあ、その道具を用意するにも時間がかかるから、すぐに死なせてはやれないけれど」
「この店の客って、変なのが多いですよね」
「人間だって私らからすれば変なの、だよ。寿命も大して長くもない癖に、その寿命を全うする前に死にたがるなんて」
「……うるさいな」
長い耳を黒いローブで隠して、如何にも魔女ですという見てくれの店長に雇われている僕は、ただのアルバイトだ。物心ついた頃からここにいるし、家に帰りたいと言う気持ちもない。しいて不満があるとするなら、物心ついたときに来た僕も、この店の客のつもりだったことくらいだろうか。
人魚なんて摩訶不思議なものを置いているこの店は、スーサイドショップだ。いわゆる自殺用のアイテムを売っている胡散臭い店。首つりロープや練炭くらいなら、ネット通販で簡単に手に入るこのご時世、重要なのは後処理だ。入って一晩眠れば、体が灰になる吸血鬼御用達の棺に、飲めば海に入った途端、溶けて消えるという人魚の涙。
嘘か誠か、にわかには信用できないトンデモアイテムが並ぶこの店で、僕はずっと雑用を任されている。客として品物を買える金額を貯めるまでの、無期限契約だ。
「人魚に死の概念はないの。朽ちることはないから、例えば永遠にも似た長い時間を眠ってしまえることを、あなたたちの言う死と呼んだりもするわね」
「あんたはそうしないの?」
「昔はしてたけどね。あれもあれで、結構疲れるのよ」
ふふ、と小さく笑って水槽の縁にかけていた腕を下ろし、ぷくぷくと泡を吐く白い髪の人魚は水槽の底に横たわる。この人魚は、一年ほど前から僕が世話を担当している。本人が数えるのを諦めたと言っていたから、数えきれないほどの年月を生きていたのだろう。この人魚が、これまでどの程度生きてきたのかを知る術はない。
もしくは、本当に面倒くさがって、人間と同じ程度も数えていないだけなのかもしれない。どちらにしても彼女は、例えば僕がこれから寿命を全うしたとして、その何十、何百倍もの永い時を生きなければならないことに変わりは無い。想像しただけで、僕なら気が狂ってしまいそうだが、人魚とはそういうものらしい。
水槽の外側を雑巾で磨いて、水を入れ替え、一通りの清掃を終えたら僕は彼女の話し相手になる。これも立派な雑用の一つだ。
彼女らは商品兼、客だ。海の生き物には通貨の概念がないから、道具の提供の代わりに、商品となる涙を提供してもらうらしい。この胡散臭い店に言いくるめられた、自分と変わらない境遇に少しばかり同情する。
「胡散臭いだなんて心外だね。うちはクレーム0の超優良店だってのに」
「……自殺志願者がどうしてクレームなんて入れられるんですか」
「失敗0だからノークレームなのよ、実質優良でしょうが」
「……遺体が上手く消えていなかったら、どうするんです」
「そこは心配ご無用。消えたい客は大抵、消えてなきゃ大騒ぎするのが近くにいるもんでね。すぐわかるんだよ」
がはは、と店長は豪快に笑った。自殺志願者を相手するにはいささか明るすぎる気がする。これくらいでないと務まらないのかもしれない。けれど、これが本当に死ねる商品を売ってくれるのかと、気が気でない不安そうな客も何人か見てきた。端から見ればとんでもない金額を支払って、小さな小さな紙袋に入った毒薬を大事そうに抱えて皆帰って行く奴もいる。僕はそれを、店の奥から見送るしかできない。
「そんな恨めしい顔でお客さんを見ないの。ドン引きしちゃうだろ」
「……僕はいつになったら客になれるんですか」
「アンタがしっかり仕事をしたら、給料代わりにくれてあげるって約束だろう」
「こんな役立たずのバイト、さっさと始末してくださいよ」
「自分の思い通りにいかないからって、苛立ってんじゃないよ」
店長はそういって、また店奥の人魚を指し示す。最近の仕事はたまに来る客の応対と、ほとんどは彼女の世話だ。とはいっても、食事の準備は店長で僕はそれを運ぶだけだったりと、大体が彼女の暇つぶし相手でしかない。さしずめ、バイトにさせるほどの仕事もないから、この程度の仕事しか任せてもらえないのだろう。だとすれば、バイト代も雀の涙程度に違いない。僕はいつまで経っても、ここからどこにも行けない。
「随分悲観的なのね。立派な足がついている癖に」
「……立派な尾ひれがあるあんたは、どこかへ逃げたいとは思わないの」
「どこへ行きたいなんてないから、ここにいるのよ」
「……」
「永い永い時間を生きているとね、それだけで苦痛なのよ。新しいものに心躍らせるのも、体力がいるものよ」
「わかる気が、する」
その人魚はいちいち疲れた顔をして見せた。食事だって、薄いスープみたいなのをちまちまと飲むばかりだ。この世になんにも楽しいものなんてない、って顔をして。それだけは、何も知らない僕でも分かるような気がしたのだが、人魚は鼻であしらう。
「あら図々しい。あんたなんかまだ十数年程度しか生きていないんでしょう?その程度でこの世を知った気になるだなんて」
「そっちだって、何年生きたかなんてわかりはしないくせに」
「少なくともあんたよりうんと年上よ」
初めて彼女と話したときは、得体の知れない存在だからこそ、どんな言葉も高潔なものに聞こえた。ここまで人生にくたびれるのに、どれほど長い年月が必要だったんだろう。ただそんな冷たい言葉でも、慣れてくるとただの都合のいい、子供をあしらう大人の言葉だと気づいてきた。
「そんで、あんたはなんで死にたいの。子供のくせに」
「子供とか関係ない。誰にも、必要とされないからだよ」
「は。何それ。あんた、必要とされるほどの何かを持ってるの?実績とか、スキルとか、誰かの役立つものがさ。子供のくせに、自分に何ができると思ってる方がおこがましい。人間の子供って皆そんなもんなのかしら」
言いたいだけ言って、ははん、とつまらなさそうに笑ってからすぐに、ふうっと息を吐いて水槽に沈んでいく。疲れたからだと言うが、それが口癖なのはそれほど老いたからなのか、それとも水中から顔を出しているせいなのかは知らない。
「疲れるのよ、生きるって。笑うのも泣くのも、どこかへ出かけるのも休むのも。生きること全てにエネルギーが必要なの。そのエネルギーを体に取り込むことさえ疲れるの。眠ることにさえ疲れて、体は食事を求めて私を起こしてしまう」
「食べなければ、飢えて死ねるんじゃないの?」
「でしょうねぇ。あんたはしたい?何十年、何百年と、うんと長い時間飢えながら耐えるの。体が朽ちるまで……」
「……」
「私はお断り。苦しい思いをするのはごめんだから、ここで涙を売ってお金を貯めてるの。……もうじきよ、もうじき願いが叶うの」
そうは言うものの、僕はよくこいつと話をさせられているが、彼女が泣いたところを見たことがない。もっと悲しい話でも、笑い転げるような楽しい話でも、持ってこさせて散々泣けばいいのに。そう思って、やっぱり疲れるからと断られるんだろうなぁ、と口を閉じる。
僕は人魚の涙で死んでみたい、とこいつに話したこともあった。ふうん、と水中で泡を遊ぶ彼女は特に興味もないようだった。ただでくれたりしない?と冗談めかして聞いたこともあるが、僕の前では泣ける気がしない、と笑われただけだ。たぶん、こいつは僕より先にここからいなくなるんだろう。
そう思ってはいたが、もうじきと言いつつまだしばらくはそこに人魚がいた。人魚の時間感覚はたぶん、僕とは違うんだろう。暇と疲れを持て余していた人魚は、あるときこんなことを僕に聞いた。
「私がもし、涙をやると言ったら、代わりにお前は何をくれるの」
「え?……くれるの?」
「例え話だよ。人間の子供は、人魚に何を渡すんだろうって思って」
「……ちなみにあんたは何が欲しいの」
「つまらないね。人間は贈り物をするとき、いちいち欲しいものを相手に訊ねてそれを渡すの?」
「いつもそうじゃないけど……あんたが欲しいものなんて、ピンとこないから」
「そうでしょうね」
ふう、とまた人魚が息を吐く。白い髪がゆらゆらと水槽でうねる。こんな短い会話でもすぐに疲れてしまうような、老いた人魚が欲しいものって何だろう。例えば疲れない体と、気力……あの店長でも用意できなさそうな、抽象的な答えに首を振る。子供の僕には到底、無理だ。そもそも死にたがりなんだから、欲しいものなんて安らかな死、とかだろうか。水槽の縁にかけられたままの、少しシワのある白い手に触ってみる。なに、と薄い緑色の目が細くこちらを睨んだ。
「冷たいな」
「そりゃあ、人間よりはね」
「熱い?」
「ええ、火傷しそうなほど……何がしたいの?」
「僕の体温で、火傷するまで触ってたら、そのうちあんたは死ぬのかなって」
言ってからすぐ、笑われるんじゃないかとハッとする。そんなのはせいぜい、人が飼う熱帯魚くらいなものだとか、なんとか。海底火山で死なない人魚が、こんなことで死ねるはずもない。知っていたはずなのに、なぜだかそのときはすっぽりと頭から抜け落ちていた。
人魚は案の定、笑った。いつもの馬鹿にするような乾いた笑いじゃなくて、うっすら口角を上げるような笑みだった。そっと離した手の甲を見つめて、人魚は言う。
「なるほどねぇ……あんた、私を殺そうと思ったんだ?」
「他にあんたの欲しいものなんて、思いつかないし」
「そうね。まあ、そう……」
死ななくとも熱さが不快だったのか、水の中で人魚は手の甲を撫でた。仰向けになって揺れていたところを、億劫そうに寝返りを打ち、こちらを見る。
「お前なら、私の欲しいものが手に入るかもね」
「何、あんの?」
「ああ。お金があったってなかなか手に入らないものだけど」
「何、それ。それじゃあ、稼ぐ意味なんてないじゃん」
「いや、あるよ。あるんだ、確かに。今にわかる」
またうっすら笑って、人魚は水槽の底にゆっくりと落ちた。ただ話すだけでも疲れ果てるほどなのに、今日は相当無理をしたらしい。翌日は丸一日眠ったままだった。いや、たぶん目は覚めていて、空腹のせいで眠りづらかっただろうと思う。眠っているように見えたのは、瞼を開けるのも辛かっただけなのだ。
病院のチューブみたいなのを喉に刺して、栄養剤を流し込まれる人魚。空腹も紛れる効果があるらしい。それならずっとつけていれば良いのにと思ったが、気休め程度なのだと店長は先回りして教えてくれた。傍にいて様子を見ておけと、僕は雑用すら与えられず、一日水槽横の椅子に腰掛けていた。
髪と同じくらい白くなった顔。お婆さんとは言わないが、人間でいうところの、母親くらいの年に見える人魚はピクリとも動かない。下の瞼はうっすら青みがかっていて、クマのように見える。彼女はどんな風に生きて、喜んだり悲しんだりしてきて、それらを手放すようになったんだろうか。
「……最後くらい、無茶してでも楽しもうって思ってんの?だとしたら、僕が相手で残念だったな」
人魚の鼻から、ふんと笑うような声がした気がした。気のせいかと思ったが、泡がぷく、と水面で揺れたので間違いではないのかも知れない。どれだけくたびれて動けなくても、こいつは元からこんな奴だった気さえした。
それからまたしばらくして、僕が初めて接客をすることになった日があった。急に何故、と驚いたが、客が僕とそう変わらない人間の女の子だったことで合点がいった。店長は子ども相手に商売するのを嫌う。だって、子どもに対価は支払えないから。
ところで彼女の話は僕にとって、つまらない冗談にしか聞こえなかった。ここへ来た理由も、学校がつまらないからとか、友人が冷たいからとか、親がウザいからとか……その程度のことで死ぬのかよって、正直苛立ってしまうようなものばかりだった。
どうせ本気で死ぬつもりなんかなくて、ただ誰かに心配されて、ここまで追ってきてほしくて来ただけにしか思えなかった。同じような苦しみを分かち合えるのかと、ほんのり期待していただけに、正直僕はかなりガッカリしていた。
「……それで?どうしたんだ?」
「真実を教えてやったよ。対価は生きてるうちに支払わなきゃいけないことと、ここで十年こき使われても支払えない額だってことをね」
「はは、お前の二の舞はごめんだろうね」
「死にたい奴が、手段なんか選べてたまるかよ」
そう言ってから、ふと人魚を見る。この人魚にとっては僕の理由も、同じようにつまらないものに聞こえるんだろうか。あんなのと一緒にされるのは我慢ならないが、所詮人間の子どもの悩みなんて、長い年月を生きた人魚からすればどれも、そう変わらないのかもしれない。
「その子は、」
「うん?」
「その子を生かすことは、お前の生きる理由にはならないのか?」
「……」
「そうか」
人魚が僕の答えをどう捉えたのかはわからない。その日から彼女が底に落ちて、ただ眠る日々が続いた。
ようやく人魚がまた起きていられるようになった頃、僕が丸一日外へ追い出される日があった。人魚を外で気晴らしさせてやってくれ、という任務付きでだ。例の子どもの客を追い払ったことへのペナルティだろうか。
人魚が金ならあると笑って言うので、僕は彼女にどこへ行きたいか聞いて、食べ歩きをしたり街を見物したりした。思ったより元気そうに見えるのは、店長と取引でもしたからだろうか。広場で見世物をやっている団体がいたおかげで、僕らのことはスタッフか、よく出来た偽物だと思われたようで騒がれることはなかった。
「やれやれ、作り物ならもっと見目麗しい女を用意するだろうに」
「ベテランだと思われてるんだよ、きっと」
「なるほどな」
見世物を見に来た子供たちにからかわれたり、他愛もない話をしたり。薄暗い店内から離れたおかげか、いくらか僕は気が大きくなっていた。夕方になって人魚が、僕の家を見てみたいと言い出したときも、遠くからならという条件付きで応じてしまうほどには。車輪のついた水槽を丘の上まで運び、僕は小さい家を指さす。そこには小さい子供と父親、二人に優しく微笑む女が見えた。
「いい家庭じゃないか」
「そうだな」
「帰りたくないのか?」
「あそこは僕の家じゃない」
「ふむ?私はお前の家まで連れて行けと言ったはずだが」
「そうだよ。あれは僕の家だ。ただ、僕が生まれただけの場所」
父が子どもを抱き上げ、肩に乗せる。それを女が迎え入れ、一緒に家の中へ入っていく。ほんの短いひとときだったが、それは街でよく見た温かな風景だった。
「あの小さい子供が、新しい母親の本当の子。僕を産んだ母は死んだ。父親は、僕が邪魔だとよく苛立っていた」
人魚は何も言わなかった。何も言わずに、僕の手を静かに握った。ひんやりしてて、僕の手は熱すぎるだろうに、それでも手を離さなかった。
手のひらから奪われていく体温を感じながら、こいつは、今ここで僕が抱き締めてやれば、苦しみながらでも今すぐ死ねるんじゃないだろうかと思った。そしてそれが最善にも思えてしまった。けれど、しない。それはなんというか、あんまりだ。
日が沈んで、帰る前に僕の行きたいところを言えと言われ、仕方なく「海」と答えた。
夜の海は静かで黒くて、浜辺は僕の家より居心地がよかった。ただ、なんで海かと聞かれれば、僕は上手く答えられる自信はない。
「綺麗だろうと思ったから、かな?」
「実際に来てみて、どうだい」
「……暗くてよくわからん」
「そうだろうよ」
人魚は茶化したり、揶揄ったりもしなかった。もしさっき見せたものが彼女の同情を誘ったなら、馬鹿馬鹿しい話だ。靴を脱いで、しばらく波を蹴り返していたが、それもやめて彼女の傍に戻る。
「また明るいときに来なよ」
「うん。そんときは、さ」
「うん」
「いや、なんでもない」
また一緒に来てくれ、とは言えなかった。寝るのも疲れるというご老体に、これ以上無理をさせるのも申し訳ない。これは一日限りの幸福なのだ。けど、約束しておけば良かった。
結局僕はこいつのいうところの子供で、あの女の子と大差もなかった。世界をちっとも知らなくて、なんにもできない子供だったんだ。
水槽をいつもの場所に戻してやって、それじゃ、と簡素な挨拶をする。人魚もおう、と粗雑な返事をした。僕たちはもうずっと、そんな関係だった。
翌日、店に入ると人魚の定位置だった水槽は、ただのガラスの容器になっていた。慌てる僕に店長が、彼女はようやく死ねたのだと教えてくれた。昨日の出来事のせいかと聞けば、店長はいいや、と首を振って答える。
「顧客情報なんて極秘だけど、あんたは一応従業員だしねぇ」
不老不死と言われる人魚を殺す特効薬は、恋なのだという。以前、どこかで人魚に教えてもらったことがある。それも悲しい、片思いの恋。恋が実らないと泡になって溶けるとか、そういう生き物なのだそうだ。
「人魚の涙だって、本当は貴重品なんだよ。一生働いても買えないような」
そう言って僕に差し出されたのは、目薬みたいな小さな容器。海に溶けて死ぬなら簡単だと思って、僕がほしいと言った約束の薬。
「くれるんです?」
「お前がほしいと言っていたからな。金が貯まれば譲ろうとも思っていた」
そう言うから手を出したのに、が、と言って取り上げられた。なんなんだと不満がっていると、どうやら別の顧客が倍の額を出すからと、僕の取り置き分を買い取ってしまったという。そんなことあるのかと、僕は苛立って店長に詰め寄る。
「それ、あいつの涙でしょ」
「そうだよ」
「誰が買ったの」
「その、あいつだよ」
理由は僕がこの涙で、海に溶けてしまわないように、だそうだ。
そう簡単に、地獄に顔を見せに来るなと伝えておけと。恋なんて金で買えないくせに、ようやく額が貯まると言っていたのは、これのことだったようだ。
真相を聞いて、僕は困り果ててしまった。十数年の人生かけて必死に買おうとしたものが、目の前で横取りされてしまったのだから。これは、言葉に出来ない。
「やめとくれ、人間の子供の涙なんて価値はないんだから、店を汚すんじゃない」
二階に戻り僕はひとしきり鼻をかんで、昨日のやりとりをひとつずつ思い出した。からかう子供の声、丘の上の、柔らかい風。夕暮れの、あの冷たい手を思い出して握った手を見つめる。僕はやっぱり、あのとき彼女を抱き締めて、殺してやればよかったと思わずにはいられない。
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