泥中の蓮

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「ふむ、腕を上げたな」  祖父や父を相手になんとか渡り合えるまでに三年の月日を要し、凛は十歳になっていた。お(こう)はあれからすぐに女衒に連れられ、女郎屋にて禿(かぶろ)としての修行を始めた。当代随一と謳われる高尾太夫付き禿となって二年。こちらも芸事や教養を身につけるべく修行に励んでいる。 「凛、そろそろ仕事を覚えて貰おうかね」  伯母であるお須津(すづ)がある日、剣術修行が終わった後にそう告げた。男の首代には出来ない仕事が、女の首代にはある。早ければ五年後には、凛にも独り立ちしてもらいたいとお須津は考えており、男女の業を見せつけることに心は痛むが仕方ない。 「いよいよですか」  子どもだと思っていた周囲の大人だが、本人は至って冷静に吉原遊廓の内情を観察している。夜毎繰り広げられる男女の睦言が交わされる部屋の隣では、修羅場が繰り広げられることもある。そんな現場に出入りするが、凛は冷静に受け止めている。  その夜、凛は黒髪を総髪に結い上げ藍色の筒袖と裁着(たっつけ)袴という男装に身を包み、腰に茶刀を差した。伯母のお須津も同様の装いである。傍から見れば歳の離れた兄弟のようにも見える。 「今夜は志摩屋(しまや)浮雲(うきぐも)格子(こうし)を立ち直らせるよ」  格子とは最高位の太夫に次ぐ地位の高級遊女。彼女らのような高級遊女は、馴染(なじみ)となって床入りする前に客を振るという権利がある。なのに浮雲格子は、ここ二日ほど客を取れないほどに心が疲弊しているという。 「このままではこっちも商売あがったりです。何とかして頂けませんか」  と、女郎屋の楼主に訴えられてお須津が腰を上げたのだ。 「伯母さま、なぜ格子は客を取れなくなったのでしょう」 「遊女がそんな状態になる原因はただひとつ。客に惚れてしまったからだよ」 「惚れる? 遊女は――特に高級遊女は、容易(たやす)手折(たお)られない高嶺の花と聞いています。そんな彼女らが恋ですか?」 「色町の遊女(おんな)といえど、ひとりの女さ。心底惚れた男が出来ても不思議じゃないんだよ」 「ですが、その辺のことを叩き込まれてきたからこその、太夫や格子ではありませんか」 「理屈でままならないのが、男と女の恋の道。判っていても恋焦がれてしまえば、操を立てて他の男になびかないのさ。凛、お前もこの色里に生まれた者ならば、そのうち嫌でも男女の業の深さを見ることになるよ」  お須津の表情は冷め切っている。その横顔を見つめ、女首代として伯母はどれほど醜い修羅場を収めてきたのだろうか、と凛は内心で呟く。伯母について本格的に修行に入る今日この日より、自分もやがてややこしい愁嘆場を見せつけられることになるのだろうかと、少々心が重くなる。 「凛、女首代の仕事は主に遊女の心を正常に戻すこと。でも甘やかすだけが仕事じゃない。時には厳しく接することも大事な仕事だよ」 「厳しく、ですか?」 「ああ。だが決して手を挙げてはいけないよ。遊女らは大事な商品だからね、どんなに意固地になっていようと、法度を破った仕置き以外に暴力を振るってはいけない。でも今回は心を間夫(まぶ)に持ってかれている。そんな事じゃ、高嶺の花である格子の名折れなんだよ」  浮雲格子の間夫は、とある藩の江戸詰家老の息子だった。正式に婚姻が決まったために、女遊びは一時的に封印という形になった。正式に跡取りが誕生し尚且つ、格子がまだ身請けされていなければ側室という形で身請けするという約束をして、事実上捨てたのだ。
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