泥中の蓮

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「淳之介さんたちに、この店を乗っ取られてもいいのか? 思い出が詰まったこの家を、お内儀(ないぎ)さんと呼ばれ不自由なく暮らしていたのにわざわざ人形町まで行って、一から慣れない商売を始めるのかい?」  言外に俺と所帯を持てば今までと同じ暮らしが出来る――そう匂わせつつ、言葉を変えて巧みに心と身体を弄んでいく。亡夫が発病した頃から男女の営みがなくなり、まだ若い彼女にとっては不満があった。亡き夫へ詫びを入れつつも身体は久しぶりのことに歓喜の声をあげる。  お(こう)を売る事への罪悪感も、与えられる快楽の波に押し流されていってしまう。やがて未亡人は娘を女郎屋へ売ること、淳之介夫婦へ店を委譲する件を撤回すること、与平と所帯を持ち残された駒川屋を切り盛りすることに同意した。  短いようで長い夜が明けようとする東雲の頃、ようやく与平は人目を忍んで未亡人の部屋を出た。お梗はその間ずっと深い眠りの中におり、己の運命が大きく変わってしまったことに気付く由もなかった。  三日後、覚悟を決めた未亡人が淳之介夫妻を呼び出し事のあらましを説明した。当然ながら約束が違うだのと反論されたが、未だに駒川屋の権利は未亡人にあるため淳之介夫妻は引き下がるしか道はない。姪の今後にも文句を付けたが、ではあんたたちが引き取るかと詰められ矛を収めるしかなかった。新吉原に店を構えているならともかく、元吉原では商売の実入りが移転前よりも確実に減った。自分の家族だけでも食い扶持は精一杯なのに、姪まで引き取れる余裕はない。ならば可哀想だがやはり、女郎屋に売るのが一番だと納得せざるを得なかった。  結局淳之介夫妻は駒川屋相続を諦め、人形町へと引っ込んでいった。 「お梗、話があるの。ちょっといらっしゃいな」 「はい」  素直に小座敷に(いざな)われた娘は、そこに番頭である与平の姿を認めて小首を思わず傾げてみせる。 「お梗、西田家との縁談は破談になったの。それとお母さんはこの番頭である与平と、所帯を持つわ」 「え? それって……ではわたしはどうなるの?」  母と与平の纏う空気に、嫌な予感がする。聡い彼女は肌でそれを敏感に悟り、思わず我が身を抱きしめる。 「近いうちに女衒があなたを迎えに来るわ。……お梗、あなたなら頑張れば太夫になれると信じている」  ごめんねと与平には聞こえない声量で母は告げる。うっすらと涙がにじんでいるのを認めたお梗は、歪められてしまった運命に抗う術を失った。七歳の幼子が大人を相手に、何が出来ようか。絶望に抱きすくめられた彼女は、母だった女と番頭が醜い生き物に見えて仕方ない。  夢なら醒めて――そう心から願っても無駄であることを認めつつ、足掻きの声をこぼすのだった。
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