泥中の蓮

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 道中それらをお須津から聞かされた凛は、武家の身勝手さに眉を顰める。そんな姪の微妙な表情を感じ取ったのか、お須津は苦笑する。 「そんな話なんざ、この色里じゃ掃いて捨てるほどあるよ」 「そうなんですね。珍しい話じゃないんですか」  そうこうする内に、女郎屋に着いた。男装した二人を丁重に楼主と内儀が迎え、格子に割り当てられている個室へ案内された。声を掛けることもなくいきなり襖を勢いよく開け放ち、お須津は足音も高らかに部屋へ踏み入る。凛も従い、襖を後ろ手に閉めた。部屋の中央に浮雲格子は座り、ぼんやりとした視線を中空に彷徨わせている。格子付きの禿二人が、突然現れた男装の首代たちにどうして良いのか判らず固まっている。 「外に出ておいで」 「言うとおりにしなんし」  力なく浮雲格子が命じれば、後ろ髪を引かれながらも禿たちは出て行く。それを確認した後、お須津は格子の前に胡坐をかいて格子を睨みつけた。 「格子、いつまでそうやっているつもりだい?」  お須津の声が低い。声が高めの男性と言われたら信じてしまいそうなほどだ。伯母の仕事用の声音に凛は思わず部屋の隅に移動し、一挙手一投足を食い入るように見つめる。格子もお須津と会話をするのは初めてであり、ほの暗い行灯の灯りがお須津の美貌を迫力のある美男に仕立て上げた。 「浮雲格子。お前さんが何者なのか自覚はあるのか? 身体は売っても心は売ってはいけないのが遊女の心得。それを忘れたって訳じゃないな?」  睨みを利かせれば、なまじ元が美女であるだけにお須津の凄絶な迫力に、浮雲格子は身を震わせる。 「あ、あの」 「ひとりの男に心身を囚われて、浮雲格子の名が廃ると思わないのか? そなたはこの公許遊廓である吉原の、高嶺の花である格子ぞ。いい加減にしないか」  決して怒鳴りつけるわけではない、むしろ淡々とした語り口だ。それが却って浮雲格子の凍り付いた心を少しずつ溶かしていった。跡取りが誕生するまでに自分が身請けされていなかったら、落籍させると呑気なことを言う相手だ。他に落籍してくれる相手が、現れるかもしれない。実際、格子を身請けしたいと願う客たちはごまんといる。 「格子にはもっと相応しい相手がいる。自信を持て格子、そなたほど()いおなごはそうそうおらぬ。わたしが男なら惚れていただろう。惜しいことだ」  言葉を変えながらお須津は格子の説得を続ける。それが格子の目を覚まさせていく。真実を曇らせていた惚れた弱みという錯覚が、薄皮を剥ぐように晴れていく。  かけられる言葉のひとつひとつが、格子の心に沁みいった。十六で水揚げされて、三年。いくら高級遊女といえどまだまだ男女の業の深さを知るには、経験が足りない。遊女ならば一度は通る、不成就な恋というものを。その痛みや辛さを格子は今回初めて経験した。  この痛みを踏み台にしてやる――格子の胸に決意が生まれた。 「……そもそも、向こうが先にわっちを弄んで捨てたんでありんす。どうしてわっちが薄情な男に対して操を立てねばなりんせん。あ、あはははは。塞ぎ込んでいたのが、莫迦らしくなりんした」  その台詞と同時に格子の双眸から涙が盛り上がり、やがて頬を伝う。それを見たお須津はさっきまでの厳しい表情を消し、菩薩のような優しい表情を浮かべるとそっと震えている浮雲格子の肩を抱いた。
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