泥中の蓮

14/30
前へ
/30ページ
次へ
 張り詰めていた糸が切れたのか、格子は吸い込まれるようにお須津の胸へ倒れ込む。優しく背を撫でながら、お須津は本来の声音に戻ってただ繰り返した。 「泣きなさい。いまは思い切り泣きなさい。泣いて泣いて、心にのしかかっている重しが全て溶けきったら笑いなさい。この浮雲格子が相手にしてやるのだ、感謝しろとの自負を取り戻しなさい。どんなに石高の高い武家でも、この吉原では遊女(おんな)の方が偉いのだと思い知らせてやりなさい」 「西田さま……」  そこからはただ、涙に明け暮れた。泣きに泣いてお須津の着物に染みが出来ることも構わずに、浮雲格子は嗚咽を漏らす。その間、凛はただ突っ立っていることしか出来なかった。日頃より伯母が凛に言い聞かせている言葉がある。 「女首代の仕事は、傷ついた遊女の心を抱くこと。心を売ってはいけない遊女でも、生きている限りこの苦界から抜け出したくて男にすがりたくなる。でも高嶺の花であり続けねばならない。この矛盾に心を壊す遊女も多く、客が取れなくなるんだよ」  女首代が男装をし声音まで可能な限り低くして疑似男性を演じるのは、傷ついた心を癒やし遊女の誇りを取り戻させるため。男に対して覚えた恐怖心や猜疑心を少しでも取り除き、また客を取れるようになるために。眼前で繰り広げられる伯母の仕事ぶりに、果たして自分が引き継げるのか不安になる。 「浮雲格子、お前は心根もとても美しい遊女(おんな)だ。自信を持て。この吉原遊廓でも太夫に次ぐ高級遊女だ。お前を落籍させてくれる男は必ず現れる」 「あい……あい。わっちはあんな男に振り回されて腐るほど、落ちぶれてはいんせん。必ずもっといい男に出会い、落籍されてみせんす」 「その意気だよ、格子」  やっと涙で化粧が剥げてしまった顔に紅が差し、暗く沈んでいた場が明るくなるような笑顔がはじけた。  ――あぁ、美しい。  凛はその笑顔を見て、素直にそう思った。この笑顔を独占できる男は本当に幸せ者だ。彼女を落籍させる男はどんな男なのだろう。そんな夢想に呑み込まれそうになった。 「明日から客を取れるね?」 「あい。わっちにはまだ借金が残っていんす。年季明けまでに素敵な旦那様を見つけ、吉原(ここ)を抜けてみせんす」  泣き疲れた格子は子どものように布団の中で眠り、いまは安らかな寝息を立てている。 「やれやれ、何とかなったようだね」 「伯母さま、お疲れさまでした」 「凛、格子のように高位の遊女ですら恋に溺れると自我を失う。今回は飴を使って立ち直らせたが、場合によっては鞭を使って相手を奮い立たさないといけない。わたしもまだまだ修行中さ。……楼主やお内儀(ないぎ)に解決したと伝えてくれるかい?」 「はい。禿(かぶろ)たちはどうします?」 「格子はいま眠っていること、ときおり様子を見るようにと伝えておくれ」  凛が退室すると、お須津は布団をかけ直してから慈悲深い笑みを浮かべる。 「因果な商売だね格子。遊廓は遊女にとっては地獄と言うが、わたしからすれば男にとっても地獄さね。大金をはたいても口すらきいてもらえない、下手すりゃ席を蹴立てられちまう。運良く馴染んだとしても、決して己一人のものにならない。だから容易く手折られない華であれと、楼主やお内儀たちは口を酸っぱくして言うんだよ」  男に裏切られ、また男を手玉にとって初めて一人前の遊女となる――売れっ子である浮雲格子とて、その点ではまだまだ半人前だった。今回の件を経てようやく本物の遊女になれたとお須津は複雑な思いで浮雲格子の、まだ幾分あどけなさの残る寝顔を見つめていた。 「さて、楼主たちに挨拶をして次に行こうかね」  悲しいかな今宵はまだ依頼が山積みだ。高級遊女に限らず、お歯黒どぶ沿いで客を取る最下層の遊女たちも、心を折られかけている者はいる。むしろ下級遊女にこそ、女首代の救いは必要なのだ。 「楼主、お内儀。浮雲格子はもう大丈夫だよ。明日からちゃんと客を取ると約束してくれた。今夜だけは休ませておやり」 「判りました。生かさず殺さずが遊女を正しく管理する秘訣ですからね」  その台詞にお須津は一瞬だけ眉を顰めたが、結局何も言わず凜と合流する。  こうして凛は伯母について女首代としての心得を学んでいった。武術の腕が向上していくにつれ、父や兄と共に揉め事や厄介ごとを起こす客の鎮圧に乗り出すようになった。足抜けをする遊女、朝になり禿が朝の身支度のために部屋に入ったら客と遊女が心中していたなど。色里で起こりがちな男女の事件を経験しつつ、凛は女首代として成長していった。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加