泥中の蓮

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 自分には許婚(いいなずけ)がいる――そう父親から教えられたのは、初めて首代を統括する宗家である西田家へ出向いた後だった。同い年の幸正とその妹である凛とは物心ついた頃から一緒に遊び、楽しい日々を送っていた。そんな幸正(ゆきまさ)が将来の結婚相手と聞かされ、幼いながらも心をときめかせたものだ。  公許遊廓で商売をする家の娘は、夜になるとこの周辺が大人の男女によって別の顔を見せることを知っていた。だが自分の生家は小間物屋だ。客が気に入りの遊女の気を惹くために、簪や匂い袋を買い求めてくる。遊女たちも白粉や香を求めて、昼に禿やお付きの振袖新造を連れてやってきていた。華やかな着物や髪型は幼いお(こう)の心をくすぐった。 (こんな綺麗なおべべを着られるなんて、遊女はいいなぁ)  幼いお梗は素直にそう思った。だが、それは単純な憧れであって、まさか自分が遊女になるために置屋に売られるとは思わなかった。 「お母さん、わたしはどうなるの? どうしてお家を出なきゃいけないの?」  それはいきなりだった。ある朝、大柄な女衒が二人現れて駒川屋に現れた。 「お梗、あなたは今日からこの家を出て妓楼へ行くの。今日この時を以て、お前とは親子の縁を切る」 「お、おかあさん?」  涙が溢れてきた。あんなに優しかった母親が、自分をいらない者扱いにしている。惑乱し、両足が全身が震えてしまった。 「いやだ、いやだお母さん。どうして捨てるの? いらない子なの? ごめんなさい謝るから捨てないで!」  どんなに懇願しようが泣こうが、母は背を向けて無情にも戸を閉めてしまった。完全に閉まりきる寸前にお梗は見てしまった。薄笑いを浮かべて自分を見つめる、番頭だった与平の顔を。 「番頭さん、番頭さん! わたしをお家に入れて!」  どんなに声をあげても与平は薄ら笑いを浮かべたまま、扉を閉めた。戻ろうとするお梗を羽交い締めにした女衒は、有無を言わさず腕を日羽って歩き出す。 「いやだ、いやだ離してよ!」  必死で両足を踏ん張り暴れるも、女衒の力には敵わない。俵のように担ぎ上げられるも、抵抗を止めないお梗を煩わしく思い、思い切り怒鳴りつける。竦んだ隙を逃さずに女衒は駆け出す。 「降ろして、帰して!」  女衒の背中を殴りつけるも、子どもの力では蚊が刺した程度しかない。抵抗虚しくお梗は、大三浦屋という吉原の中でも大きな置屋へ連れ込まれた。 「楼主、連れてきましたぜ」 「ご苦労。お梗とやら、今日からここがお前の家だ。姐さん女郎に付いて、しっかりと色里の諸訳(しょわけ)を学ぶんだ」  大見浦屋の主人である、三浦四郎左衛門が冷徹な目で七歳の童女を見下ろして言い放った。女衒は用はすんだとばかりに出て行き、お梗はもう後戻りが出来ないことを痛感した。背が高くがっしりとした体格の三浦四郎左衛門は、評判通りのお梗の美貌に内心で感嘆の声をあげた。幼子は顔が変わるというが、長年女郎屋の主をしていると大体の変化が予想できる。お梗の場合は大人になるにつれ更に美貌に磨きがかかると見抜いた。 (これは、うまくすれば高尾太夫を継がせることが出来るやもしれん)  高尾太夫とは、この大三浦屋が抱える最高級の太夫の名跡である。現在その名跡を継いでいる太夫は人形町で運営していた元吉原の頃から売れっ子で、当代きっての太夫と謳われている。その高尾太夫がいま、三浦四郎左衛門に呼ばれてお梗の眼前に座した。  ただ座しただけなのに、太夫の背後には後光が差しているようにお梗には見えた。一見冷たく見える切れ長の涼やかな双眸は、じっとお梗のことを観察している。上から下まで値踏みするように。お梗はどうすることも出来ず、ただ固まっているしかできない。張り詰めた空気はやがて、太夫の細い嘆息ともとれる息遣いで破られた。
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