泥中の蓮

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「楼主、わっちを呼んだのは、こなたの子を禿(かぶろ)として養えということでよろしいでありんすか? わっちは暫く禿を付けたくないんでありんすが。ふた月前に禿をひとり亡くし、まだ傷心が癒えてないんでありんす」 「そう言うな太夫。禿が一人だけだとなにかと不便だろう? それにお前さんも判っているはずだ、この子は逸材だ。お前さんの名跡を継ぐかまたは太夫になれると」 「そうでありんすね。肌が綺麗で目に温かみがある。しっかりと仕込めば、いい遊女になるでありんしょう」 「では太夫、お願いして良いか?」 「……判りんした。楼主がそこまで仰るなら引き受けんしょう」 「助かるよ太夫。と言うわけでお梗。今日からこの高尾太夫が(あね)さん女郎としてお前を教育してくれる。しっかりと励みなさい」  こうしてお梗は禿としての生活が始まった。太夫付きの禿ということは、将来は太夫か格子になるよう厳しく教育される。三味線、琴、鼓に舞踊といった芸事の他に書道と香道、立て花や和歌に水墨画などを禿たちは仕込まれる。将来の太夫候補と目されると、姉女郎の師匠も加わって仕込む。  ただお梗は七歳で禿になったために、四歳頃から禿になった先輩に比べて仕込みに時間がかかった。しかしお梗はもう帰る場所がない。商家といえど吉原で育った娘だ、この色里内で生き残るならば必死で食らいつくしかない。姉女郎の世話をしながら教養を身につけていく。 (わたしにはもう、自分しか頼る者はいない)  七歳にして悲壮な決意を胸に秘め、お梗は禿時代を過ごしていく。 「お梗。今夜は仙台の陸奥守が来んす。失敗(しくじり)のないよう頼みんすよ」  仙台の陸奥守とは伊達綱宗のことである。若年であるがもう隠居させられており、現在は品川の大井屋敷に蟄居し、絵画をはじめとする芸術に傾倒していた。その繋がりで高尾太夫とは馬が合い、足繁く通うこととなった。高尾太夫にとっては太客であり、隠居した身とはいえまだ若い男だ。  高尾太夫も心までは売っていないが建前上は 「主さんがいっち好き」  と言うほどには心安くしている。 「太夫、墨画はこちらでよろしいですか?」 「いいでありんす。それよりもお梗、言葉遣いをきちんとしなんし」  出身地を隠すために、ありんす言葉が使われる。吉原育ちとはいえお梗は商家の出身なので、ありんす言葉は耳に馴染んでいても使うことはなかった。故に難しい独特の言い回しになかなか馴染めず、苦労していた。 「太夫、そなたを身請けすると決めた」 「綱さま、嬉しゅうありんす」  その夜、高尾太夫の元に通ってきた伊達綱宗は彼女を身請けする旨を伝えてきた。正直太夫は嬉しく思いもしたが、同時に他に通ってきてくれている客に、多少の好意を抱いていたので複雑な心境であった。しかしそんなことはおくびにも出さず、そっと綱胸の胸に寄り添い頬を染めて見せた。  そこからの綱宗の行動は早く、高尾太夫と同じ重量の金を払い身請けしていった。お梗は高尾太夫とは一年しか一緒に過ごさなかったが、遊女の心延(こころば)えの一端を教えて貰った太夫の身請けは羨ましかった。売られて間もない自分はこれから何年も吉原(ここ)に遊女としていることになるのか。そう思うと気が塞ぐ。高尾太夫付きの禿たちは、振袖新造から太夫となった遊女付きとなり、修行をすることになった。  お梗は十五を迎える頃に振袖新造になり、夜毎に営業が始まると見世(みせ)清掻(すががき)のために三味線を鳴らすようになった。暗闇の中に灯りが一斉に灯り、百挺をこえる三味線が各女郎屋から掻き鳴らされる。 「お梗、ちょっと」  大三浦屋のお内儀がそっと彼女を呼び、客の指名が被った太夫の代わりに相手を務めるよう言われた。 「もし強引に手を出されそうになったら、大声を上げて逃げなさい。若衆が全力でお前を守るからね」 「あい」  水揚げのすんでいない振袖新造は、姐女郎の指名が被った際には代わりに客の相手をする。その際には添い寝が絶対条件で、不埒な真似をしようとする客は女郎屋の若い衆に何をされても文句は言えない。振袖新造はこうやって少しずつ男に慣れていき、やがて迎えるであろう水揚げに備えるのである。  お梗が客の隣で大人しく身を横たえていると、外でひときわ大きな怒号が響き渡った。慌てて身を起こす二人は、何事かと思わず窓の障子を開け放った。若衆が寄ってたかって一人の客を引きずり回している。遣手など石つぶてを投げていた。 「何て野郎だ、この大三浦屋の太夫と馴染んでおきながら余所の店の格子とも馴染みやがって。吉原(ここ)じゃ浮気は厳禁なんだよ! この芋侍めが」 「騒がしいと思ったら、浅葱裏でありんすか。遊廓の諸訳も知らぬ田舎者が、一人前に遊ぼうなどとは。無様でありんすね」  禿時代とは違い、ありんす言葉も板に付いたお梗は嫌そうに眉をしかめた。客の方も嘲りの表情を浮かべ、冷えるからとお梗を布団に(いざな)った。外からは身包み剥いで追い出せだの、二度とこの吉原の大門を潜るなだのと言う罵倒が響き渡る。 「やれやれ。野暮な客が増えるのも大変だね」 「わっちが独り立ちする頃には、ああいう浅葱裏の相手をすることのないように願いんす」 「ははは。新造なら立派な太夫となりそうだから、ああいう身分の低そうな輩の手には届かないだろうさ」 「だといいのでありんすが」  人知れず溜息を吐き、お梗は客である井伊家の跡取りと静かに添い寝をする。こうして芸事を修め、お梗は振袖新造時代を過ごし若駒太夫となるべく今夜、水揚げを迎えたのであった。
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