泥中の蓮

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 この十年の間、互いの身に起こった出来事が走馬灯のように駆け巡った時間は、僅か瞬き三回ほどの時間だった。だが二人には一刻にも匹敵するほどの長さに感じられていた。どちらからともなく目を合わせると、期せずして寂しげな笑みを浮かべる。 「そろそろ、ですね。わたしはこれで失礼しますよ」 「……あい。お凛さんも達者で」  後ろ髪引かれる思いを必死に堪え、凛は静かに立ちあがると襖を開け階段を降りる。待ち構えていた楼主夫妻が、 「もうそろそろ大旦那が到着するそうです」  と告げてきた。判っていたが、凛の心が悲鳴を上げる。  本来ならば今年は、兄の幸正とお梗が夫婦となるはずだったのだ。知らず知らずのうちに拳を固く握りしめ、邪魔をしたなと楼主夫妻に告げると首代たちを連れて別の女郎屋へと向かう。入れ違いで杖をついているが、顔の色艶が良い初老の男が大三浦屋へ入っていく。 「あの人がお梗姉さま――いえ、若駒太夫の水揚げ相手か」  太夫や格子の敵娼(あいかた)が大名が大半のこのご時世で、豪商が太夫の敵娼になるなど珍しい。その上、水揚げ相手に選ばれるということでよほど遊び方が綺麗なのだろう。遊女たちや遣手、楼主夫妻の眼鏡に適った粋な遊び方が出来なければ水揚げ相手という大役は任せられないのだから。 「はいはい、こんばんわ。御免下さいよ皆さん」  ご隠居が恵比須顔で杖をつきながら階段を上がっていく。階段の幅は人ひとりが通るのがやっとなので、お付きの男は後ろで隠居が足を滑らさないよう注意を払っている。 「ご隠居、明朝お迎えに参ります。足下お気を付けて」 「はいはい、よろしくね。――では仕事をしましょうかね」  隠居は奉公人の姿が階下へ消えると、それまでやや猫背気味だった背筋が伸びた。杖を使っていたのが嘘のようにしっかりした足取りで若駒太夫の座敷前まで歩む。 「失礼するよ、振袖新造」 「お待ちしておりんした。お入りくんなまし」  今の段階ではまだお梗は振袖新造という立場なので、客である隠居を立てる口調になっていた。  緊張が高まった座敷の襖が静かに開く。計算され尽くした行灯の灯りが、お梗の顔に陰影を付け凄絶な色香を演出している。隠居は女の前に座し、盃を受けた。返杯し緊張をほぐすために雑談を交わしていく。お梗の幼少の話、禿(かぶろ)から振袖新造時代の苦労話を根気よく聞いていく。心を開かせなければ身体を開くにも苦痛が伴う。ましてや祖父と孫ほどの歳の差がある。隠居は好々爺とした笑みを崩さず時には同情し、時には同調して凝り固まった女の心を解いていく。 「ささ、もう一献」 「主さんも返杯どうぞ」  差しつ差されつ時は穏やかに流れていく。酒と雑談のお陰でだいぶ場の空気がほぐれたところで、二人は自然な流れでこの当時としては豪華な布団へと雪崩れ込んだ。 「力を抜きなさいな、大丈夫。全て任せてくれればいいからね」 「……あい」  老爺に若い肢体を好きにされながら、お梗の脳裏に浮かぶのは幼い頃の幸せな記憶だった。祖父の代理で初めて西田屋へ使いに行ったあの日。許婚と後に教えられた西田幸正とその妹、凜と遊んだ記憶。父が労咳に冒されなかったら今頃は西田屋へ嫁いでいた筈だった。 (わっちはもう、こなたの色里から逃げらりんせん。どなたかに身請けされるか死ぬか、それ以外にここから出る道はないのでありんすね)  少しずつ女としての身体に目覚めさせられつつ、少女時代に別れを告げ大人の――若駒太夫として生まれ変わった。流した涙は後悔なのか口惜しさなのか、女としての悦びに目覚めさせられたからなのか。答えは若駒太夫だけが胸に秘めていた。
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