泥中の蓮

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 できるだけ感情を表さないよう幼い頃から訓練を受けてきた凛だったが、今日だけは拳を握ることでこみ上げる如何ともしがたい思いを抑え込んでいた。ちらと高砂を見やれば本日の主役である兄の幸正と、京の島原から嫁いできた少女の姿がある。二人とも婚礼衣装に身を包み、義姉となるお美津(みつ)は恥ずかしげに俯いている。傍から見れば何とも可憐な花嫁であるが、凛にとっては複雑だ。本来ならば花嫁衣装に身を包み、あの高砂で兄の隣に座っているのはお梗の筈だったという思いが未だに消えない。ましてや昨夜、水揚げ前にお梗に会ったばかりだ。張り裂けそうな胸の痛みに耐えつつ、表面上は京から来たお美津と義姉妹にならねばならない。 (こんな茶番劇に付き合わされるくらいならば、皆と一緒に見回りに行きたかった)  親族ということで祝言に出席しなければいけなかった。お美津と言葉を交わした印象は、悪い人ではないというものだ。だがお梗の方を慕っていた凜としては、どうしても一歩引いてしまう。 (まぁ普段の生活は別だし、この人たちと顔を合わせることは殆どないし、それほど気にしなくてもいいか)  複雑な思いを心の奥底に押し込め、凛は端然と座し祝い酒を口にする。既に周囲は飲めや歌えの大騒ぎになっており、吉原の太鼓持ちや引退し今は芸妓として身を立てている女たちが祝言に花を添えていた。 「お凛、少し外に出ないかい?」 「伯母さま……判りました」  お須津が退屈げな姪の様子にいち早く気付き、酔っ払いに絡まれる前に厠へ行くふりをして外へ連れ出した。そのまま大門をくぐってすぐにある、毛氈を敷いたいくつもの床几のひとつに近付く。待合の辻と呼ばれるそこには馴染み客が来るのを待つ遊女が幾人かおり、長煙管を吹かせながら退屈そうに腰掛けていた。 「あれ、西田屋の……」  二人に気付いた遊女たちが慌てて立ちあがろうとするのをお須津は片手で制し、 「ちょっとお邪魔させて貰うよ」  と気安げに腰掛けた。  凛もそれに倣うと暫く仲の町通りを往来する客たちや、道中をする遊女たちの姿をぼんやりと眺めていた。やがて馴染み客が来たので待合の辻にいた遊女たちは次々と姿を消し、いつの間にか二人だけになった。伯母が自分に何か話があるのだろうと察していた凛は、伯母の横顔を見遣った。 「いやぁ、今夜は風が気持ちいいねぇ」  桜も終わった今の時期、夜風は幾分か初夏の気配を孕んでいる。 「凛、この祝言に納得がいかないかい?」 「いくもいかないも、もう兄さまたちは夫婦ですから」 「そう、いくら足掻いても幸正はお梗ちゃん以外の女人と夫婦になった。お梗ちゃんも遊女となった」 「なにが仰りたいんですか、伯母さま」  つい四半刻前までお梗と言葉を交わしていただけに、凛の声音が僅かに尖った。
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