泥中の蓮

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 お梗は大三浦屋の看板太夫として、権勢を振るっていた。水揚げからはや五年。二十二歳になった若駒太夫には最近、大三浦屋も納得する太客がついた。若駒太夫がまだ小間物屋の娘として暮らしていた頃からの知り合いである、廻船問屋の跡取り。若駒太夫より二つ上の若旦那は、幼い頃の若駒太夫を知っていた。遊女屋に売られてから、教養を含め磨きに磨き抜かれた彼女は匂い立つような美女に成長していた。  再会したのはつい三月前。初会の段階で幼馴染みと気付いた二人はだが、吉原の作法に則りただの客と驕慢な太夫として振る舞うしかなかった。 「まさか鶴木(つるき)屋の小次郎さんが」  初会が終わったあと、若駒太夫は半ばうわごとのように呟く。幸正とはほんの二、三回遊んだだけで許婚(いいなずけ)の関係になったが、小次郎とは家が近いこともあってしょっちゅう遊んでいた。小次郎の方が二歳年長ということもあって、幼心にも憧れの人という感じだった。それが十数年の時を経て意外な再会。互いに大人になった姿を見て心が騒いだ。特に身体だけを弄ばれる立場の若駒太夫にとって、心に灯った何とも言いがたい熱い塊が心を掻きむしった。 「太夫、次の客でありんす」 「判ったわ。今夜はあと何人、相手しなきゃいけんせんでありんしょう」 「お疲れでありんしょうから、薬湯をいまお持ちしんすね」 「ありがとう。お前はまことに気が利くね、お菊」  お菊と呼ばれた禿は一礼すると部屋を出て、太夫のために滋養の薬湯を持ってきた。受け取った太夫は心のざわめきを落ち着かせるように、ひと息にそれを飲み干した。ふう、と思わずため息が漏れる。煙管(きせる)をくゆらせれば、脳裏にはつい先ほど別れた小次郎の端正な顔立ちが思い起こされる。もう太夫の心には幸正の姿など綺麗さっぱり消え失せ、代わりに男振りの良い小次郎の姿が占めている。それが遊女にとって不要とされているまごころと気付くのに、時間はかからなかった。  裏と呼ばれる二回目の逢瀬も初会と変わらず殆ど会話らしい会話はなく、ただいたずらに時間が過ぎていった。部屋に設置される行灯の位置が初会と変わり、若駒太夫の顔に陰影をつけそれが凄艶な色気を演出する。小次郎は磨きがかかった太夫の美しさに声も出ず、思わず生唾を呑み込む。初会では壁際に座していた太夫は裏では少しだけ客に近付く。しかし会話はなく、ただ漂う空気がもどかしい。それでも小次郎は商売の話をし、若駒太夫にほんの少しの笑みを浮かべさせることに成功した。裏でこれは快挙である。大抵の客はだんまりを決め込まれ、心を折られる。 「お疲れでありんす太夫」  恋の病に冒されている太夫は、小次郎と別れると恋しさのために身体から力が抜け疲労を感じる。お菊がすぐにそれと察し、薬湯を持ってくる。遊女にまごころなし、とは言うものの生きている人間ゆえに、芽生えた恋心に歯止めは利かない。 (次に来てくれる時は、馴染。わっちはやっと、惚れた男に抱かれるでありんす……)  胸を焦がすような痛みを抱えつつ、いつ来るか判らぬその日を待ち侘びた。
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