泥中の蓮

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 小次郎は女をまだ知らない。若駒太夫が初めてのおんなだ。当然ながら緊張し男のしるしが無事に機能するか心配だったが、杞憂だったようだ。一人前の太夫となって五年。若駒太夫は巧みに小次郎を誘い、睦み合う。技巧は覚束ないが小次郎には情熱があった。若駒太夫の方は、本当に惚れた男に抱かれることで心身共に満たされていく。 「うれしゅうありんす。小次郎さまに、惚れんした……」  夫婦になったその刹那、熱い吐息混じりに太夫がこぼす。小次郎も胸に湧き上がる切ない感情に身を支配され、激しくも優しく太夫の身を掻き抱く。若い二人は熱情の赴くままに抱き合い求め合う。豪奢な布団が潤うほどに、潤うほどに。  後朝(きぬぎぬ)の別れが来た。まだ寝ぼけ眼ながらも禿たちは洗面道具を手に、寝乱れた二人の支度を手伝う。  客は桶に入った水で手と顔を洗い、房楊枝(ふさようじ)と呼ばれる現代でいう歯ブラシで口内の清掃をする。歯を磨き歯間を掃除し、舌の苔をこそげ取る。着物を着ると昨夜と違って自信に満ち、男振りの良い小次郎がそこにいた。 「また来てくれんすか?」  若駒太夫はそれだけ言うと、じっと小次郎の目を見上げている。儚げで弱々しい。初会や裏で見せていた、あの驕慢とも取れる厳しい姿勢は鳴りを潜めている。太夫の後れ毛に強烈な色香を感じつつも、もう朝になり他の客たちも帰宅のために混雑してきている。名残惜しさを感じつつも、小次郎はそっと太夫の滑らかな頬をひと撫ですると背を向け帰宅の途に就く。  小次郎に抱かれた後は他の客を取る気になれない――我が儘と判っているが、どうしても気が乗らないのだ。だが他の客を逃してしまえば借金はかさむばかりで、年季が明けても羅生門河岸などで働かねばならない。現に既に第一線を退いた浮雲(うきぐも)格子が、羅生門河岸で今も最下層の女郎として客を取っている。太夫に次ぐ位の格子だった浮雲は、年季が明けているのに借金返済のため――男の身体なしでは生きていけなくなってしまったので、過酷な河岸で働いている。 (わっちも年季明けまでに身請けされなければ、浮雲のように惨めにいつまでも客を取らねばなりんせん。小次郎さまがわっちを身請けしたいと思うほどに、好いてくれてありんしょうか?)  男の、いや他人の心など判るはずもない。真剣に恋をしてはならない遊女の身を、今ほど恨めしく思ったことはない。今夜も一方的に好いてくる馴染客と床を共にしなければならない。別の日には初会や裏が待っている。虚しい日々を過ごしながらも、真心を捧げる男が通ってくれるのを待つのみ。手紙を送っても会いに来てくれない。病気と偽り客を取りたくないが、そんなことをすれば借金だけがかさむ。 「太夫、今夜は鶴木屋の小次郎さまがいらっしゃったそうでありんす。次の初会の客が終われば、小次郎さまの番でありんす」 「小次郎さまが。あぁやっと会える、み月ぶりかしら? さっさと面白うありんせん初会の客など、終わらせんしょうか」  禿相手につい本音を漏らしてしまい、一瞬の沈黙のあと場に失笑が響き渡る。若駒付きの新造も禿たちも、彼女が望む相手はただひとりと知っている。自分たちが遊女として独り立ちしたとき、そのような芯から惚れる相手が出来るのか……姉女郎の恋が成就してほしいと密かに願うのであった。
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