泥中の蓮

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 一見まともそうに見える人間にも、裏の顔というものがある。その夜、若駒太夫の初会に現れた男は冷たい目をしていた。そのくせ何とか太夫におもねるような態度を取るのが不気味だった。じっとその男を目したまま観察していた若駒太夫は、取り返しの付かない過ちを犯した。 (こなたのお人は緊張していんす が、なかなか可愛いところ がありんす。じっとわっちを見つめて……)  普段の若駒太夫ならば次の裏など承諾しない客だったのに、小次郎への恋心が募っていたために客を見る目が曇ってしまった。冷たい目は緊張によるもの、おもねる態度が何とか自分の気を惹こうと必死だという風に曲解してしまった。  二日後、待合の辻で別の女郎屋に在籍する格子と待ち合わせている男の姿があった。吉原では馴染んだ遊女以外の元へ通ってはいけないという不文律がある。待合の辻で男を待っていた遊女は、中籬(ちゅうまがき)の女郎屋に在籍している。男とは半月前に馴染となったがここしばらく足が遠のかれていた。しかし辻で待っていたら偶然も男と遭遇した。 「松さん、お久しぶりでありんす。ようやっとわっちの元に来て下さったんでありんすね。こなたの間の文には少ぅしばかり忙しいから、通えないとあったのに」 「あ、あぁ急に都合がついてな。大島格子は息災そうだな」 「松さんがいらして下さらなかったので、わっちは寂しくて仕方がありんせんでしたよ。もうわっちのことなど忘れたのかと思うと、月を見上げながらひとり涙を流していたんでありんす」  ここぞとばかり男を引き留める口説き文句を投げかけるが、肝心の男はどこか上の空だ。それはそうだろう、男は今日、若駒太夫と裏を交わすつもりで吉原に来たのだ。それがまさか古馴染の格子が待合の辻で待っていると思わず、今夜は若駒太夫との裏を諦めないと駄目か? と舌打ちをしたい思いに駆られた。 「でもわっちは今、月の障りになってしまいんしたんでありんす。 残念ながらお相手をすることが出来んせんが、今日は別の人が来る予定なので、その人に事情を話すために待っていたんでありんす」  本来ならばそんな言伝は禿にでも任せれば良いのだが、よほどその客は格子にとっての太客なのだろう。わざわざ身体が辛い期間を押して辻までやってくるのだから。 「そうか、わざわざ辛い時期に大丈夫なのか?」 「まだ動きやすい時期でありんすから、大丈夫でありんすぇ。松さんはこなたの後どうするんでありんすか? わっちの振袖新造に、相手をさせんしょうか?」 「……いや、格子が月の障りなら今夜はこのまま帰るとしよう。もう少し風に当たってからな」  本音としては格子が待合の辻から消えてくれるのを待ってから、若駒太夫の元へ通いたい。今宵は裏を返すので、太夫が席を蹴立てなければ次はいよいよ馴染だ。今までこの格子の元へ通ったが、最近評判の若駒太夫の顔を見たらひと目で気に入った。何としても馴染まで持ち込み、できれば太夫を身請けしたい。 (浮気者は吉原では最大の御法度。どうにか格子にバレないように若駒太夫の元へ通わねぇとな)  肝心の若駒太夫は、このことに気付いていない。この男は吉原の禁忌を犯そうとしていることに。
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