泥中の蓮

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 小次郎が若駒太夫と夫婦になって三月(みつき)が経った。 「太夫、ずっとずっとお前さんに言いたかったんだが身請けをしたいんだ」 「小次郎さま、まことでありんすか? 嬉しい」  他の客に対する返事と違い、若駒太夫は心から嬉しさを顕した。何の病気もない内に、惚れた男に身請けを約束された――遊女にとってこれほどの僥倖があろうか。少女のように頬を薄紅色に染め、若駒太夫はそっと小次郎の胸にもたれかかる。温かい男の胸に頭を預け、太夫は幸せを噛みしめる。 「今夜、楼主にそなたの身請け話をしようと思う。身請け金の総額も聞かないとね。太夫、いやお梗ちゃん。こんな苦界から一日も早く抜け出して、わたしの元に来て欲しい」 「小次郎さま……嬉しゅうありんす」  太夫の双眸から嬉し涙が零れ落ちた。二人は他の(つぼね)から聞こえる嬌声や睦言を聞き流しながら、楼主へ面会を申し込む。突然降って湧いた身請け話に楼主は困惑するも、相手は大店の若旦那だと思い直しいくら儲けが取れるか脳内で算盤を忙しくはじき出す。 「太夫の身請け金だね。いま帳簿を持ってくるから待っていてくれ」  楼主である三浦四郎左衛門はそう言って立ちあがり、奥へと消えた。やがてお内儀を伴って現れた楼主は、口元に隠しきれない下卑た笑みを貼り付けて座る。 「若旦那、若駒太夫の禿時代から今現在に至るまで、内が肩代わりした金はこれぐらいだ。加えて太夫という稼ぎ頭が抜ける穴埋めも含めると、少なく見積もっても二千両。これに借金を含めると二千五百両だ、どうだね若旦那。これほどの大金をお前さん、出せるかい?」  大名でも軽々しく出せ金ではない。いくら廻船問屋として羽振りが良いとはいえ、まだまだ太夫や格子といった高級女郎の太客は大名が主流の時代。楼主はそう簡単に稼ぎ頭である若駒太夫を手放すつもりはないのだ。盛大に吹っ掛けて、まだまだ若駒太夫を働かせ店に大金を落とさせようとの腹づもりだ。 「二千五百両ですか、随分と大金ですね」  そうは言いながらも小次郎の顔は平然としている。楼主は人を見る目に長けているため、小次郎が強がりを言っているのではないと瞬時に判断した。 (はて、この若旦那は何を根拠に大名でも躊躇いがちなこの金額を前に、平然としていられるのか) 「先の明暦の大火で商人(あきんど)たちは――こう言っては何ですが随分と潤ったものですよ。材木問屋さんをはじめ、我が廻船問屋も本来の仕事に加えて木材を運ぶのに船の手配をしたりと中々に大忙しだった。そのときに蓄えた資産がまだまだ潤沢に残っているのでね」  その台詞を聞いた楼主は、 (もしかしたらこれから先の客は、武家ではなく商魂たくましい商人なのではないか?)  との思いが脳裏を過った。  乱世は終わりを告げ幕府のお陰で、世は泰平へと歩み出している。今は武家も乱世の残滓で懐があたたかいが、石高など天候に左右されたり改易や転封といった措置で、いつ変動するか判らない。  泰平の世になれば商売によって金を稼ぐ者が強くなる――。  傾城屋の主として、情勢を読む力は必須だ。これから形骸化していく武家などよりも客の主力は間違いなく商人になると見極めを付けた楼主は、今度こそ満面の笑みを浮かべる。 「よう判りました。若旦那、二千五百両を用意して頂ければ太夫の身請けを認めましょう」 「ありがとうございます。金は明後日に用意できますので」 「では借金の証文や身請けに関する証文など必要な物をそれまでに用意しますんで。あと大門の傍にある四郎兵衛会所にも話を通しておきやす。そうしないと足抜けと勘違いされ、折檻を喰らっちまいますからね」 「それは勘弁願いたいものですね」  小次郎の傍で端座していた若駒太夫は、安堵の息をこっそりと漏らす。  これでこの苦界から解放される。そう信じて。
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