泥中の蓮

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 浮気者の男――とある藩の家老の子息だが――は、今夜が若駒太夫と裏を返すことに浮き足立っていた。次に会えばいよいよ馴染だ、やっとあの見目麗しい若駒太夫を抱けると思うと鼻の下が伸びる。格子もいい女だが若駒太夫はもっといい女だ。早くあの太夫(おんな)を抱いてみたいとの欲望が膨らみ、大三浦屋へ向かう足取りが軽い。 「おい聞いたか、大三浦屋の若駒太夫が身請けされるそうだぞ」 「本当かよ、あんないい女を身請けする男ってどんな男だよ」 「噂では廻船問屋の……ええっとそうそう、鶴木(つるき)屋だ。鶴木屋の若旦那が身請けするそうだぞ」 「高嶺の花の道中も、もうすぐ見られなくなるのか。あれほどの華麗な花魁道中ができる遊女は、そうそういないのにな」 「今夜が最後の夜だそうだ。身請けする若旦那と、しっぽり過ごすそうだぞ」 「かぁーっ、こいつぁごちそうさんだな!」  到底太夫などに会えない連中が、聞きかじった噂話をしながら仲の町通りを冷やかしで歩く。近頃は武家だけでなく、裕福な商人たちも吉原を闊歩するようになっている。偶然彼らの後ろを歩いていた浮気男はその会話を聞き、怒りがわき上がってきた。 (まだあの遊女を抱いてないぞ! 今夜も金を注ぎ込んで会いに行くのに、身請けだと!? しかも武家ではなく商人……ふざけるな、武家を差し置いて町人ごときが太夫を身請けなど生意気な!)  浮気者は別の女郎屋で格子と馴染んでいるくせに、随分と身勝手な言い分である。一方的に若駒太夫に熱を上げ――しかも、まだ初会しかしていない――た男は、太夫をもう自分の女だと思い込んでいる。 (許さん、許さんぞ。勝手に身請けなど絶対に許さん。たかが町人の分際で!)  異様な殺気を感じたのか、前を歩いていた二人組が思わず道をあけた。彼らの間を肩を怒らせながら浮気者はすり抜け、大三浦屋へと向かった。 「若駒太夫を頼む」 「相すみません。若駒太夫は、今宵は客を取りません。身請けが決まっており今夜は最後の夜なので、身請けする旦那と過ごしております」 「拙者は今宵、太夫と裏を返す予定だった。客を莫迦にする気か!?」  激昂した浮気者は楼主を突き飛ばすと、草履と二本差しを見世に預けずに強引に上がり込んだ。 「あ、ちょっとお客人! 困ります、足を洗って二本差しを預けてくだせぇ!」  楼主の声に奥から若衆が出てくるが、彼らが浮気者を取り押さえる前に二階へ駆け上がってしまった。追い打ちをかけるように、浮気者の本来の敵娼(あいかた)である格子を抱えている女郎屋の若衆が肩を怒らせながら、大三浦屋へ雪崩れ込んできた。 「ちょいと、あんたたちは誰だい? 人の見世に土足で入り込んできて」 「失礼します大三浦屋さん、俺らは木戸屋の人間です。うちお抱えの格子と馴染んだ侍が、大三浦屋さんの若駒太夫に粉掛けていると小耳に挟みましてね。様子を見に来たらこの騒ぎで。浮気者は吉原最大の御法度、捕物に協力して下さい」 「木戸屋さんお抱えの格子だって? なんて野郎だ、おい誰か! 四郎兵衛会所にひとっ走り行っとくれ!」 「へ、へい!」  大三浦屋の若衆がひとり駆け出す。木戸屋の若衆が大三浦屋の許可を得て二階へ上がりかけている浮気者の肩を掴むが、投げ飛ばされてしまった。階段を滑り落ちる若衆に続き、仲間たちや大三浦屋の若衆たちも取り押さえにかかる。 「邪魔立てするな!」 「お前こそ大人しくしろ浮気者めが!」  取っ組み合いの大騒ぎに、客を取っている遊女たちが次々と客と共に局から顔を出した。浮気者はそれらには目もくれず、目的の局の襖が開くのを待っていた。
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