泥中の蓮

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 何やら外が騒がしく、太夫と客の立場で過ごす最後の夜を不躾な輩が暴れていると、鶴木屋の若旦那と若駒太夫は顔を見合わせ眉を顰めた。 「随分と無粋な客が来たようだね、ここは大籬(おおまがき)の見世なのに礼儀知らずだ」 「大方、参勤交代でやってきた浅葱裏でありんしょう。よくいるんでありんす、江戸詰めになりんしたから吉原に繰り出して、作法を知らずに暴れ出す無粋な客が」  若駒太夫はまだ振袖新造だった頃、姉さん女郎の代理で客と添い寝をしていたときに似たような騒ぎがあったことを思いだしていた。そのことを若旦那に告げると、彼はその端正な顔に嫌悪感を滲ませて言った。 「他の遊女と馴染んだのに、浮気ですか。何て不誠実な男なんだろうね。男の風上にも置けない」 「浮気は吉原では御法度。身包(みぐる)み剥がされて笑いものになりんす。最悪、吉原の大門を二度とくぐれせん罰が下されるのに、年に幾人かこういう人が現れるでありんす」 「浮気した男には、どんな罰が下されるんだい?」 「大門で新造から禿まで動員して待ち伏せをされ、妓楼へ連行しんす。裏切られた遊女からの仕置きは、大勢の前での公開処刑。捕らえられた客は、裸にされて女の着物を着せられる辱めを受けんす。おまけに顔に墨を塗られたり、髷を切られたり。こんなところでありんしょうかね」 「それはそれは。随分と厳しい辱めだね」 「吉原のしたりを破る方が悪いんでありんす」  そんな会話をしていると、騒ぎを聞きつけた他の局から野次馬が出てきたようだ。そのとき太夫は確かに聞いた。男の声が 「若駒太夫はどこだ、出てこい! 無断で身請けなど許さんぞ!」  と叫んでいるのを。 「なんでありんしょうか、わっちの名前が聞こえたような気がしたんでありんすが」 「わたしも聞こえた。それに身請け話はここの楼主も承知のこと、他の客が喚こうと覆すことは出来ない筈だけど」  二人が気味悪がっていると、楼主である三浦四郎左衛門の怒号が飛んできた。怒号というより焦りを大いに含んだ切迫した悲鳴にも似た声だった。 「若駒太夫、鶴木屋の若旦那! 早くそこから逃げるんだ、若衆たちが抑えている間に早く!」 「楼主さま? 小次郎さま、何だか胸騒ぎがしんす。隣の部屋へ逃げて、ここを無人にしんしょう」 「そ、そうだな。事情は判らないが太夫を探しているようだし、身請けがどうとか言っているし」  二人は大急ぎで立ちあがると、外の騒ぎに乗じて急いで襖を開けて隣の局へ、そのまた隣へと移動する。最奥の局まで着くが、その隣は二階に設えてある厠で外へ逃れることは出来ない。この局で息を潜めているしかない。 「出てこぬか若駒太夫!」  ならず者の怒声が響く。同時に誰かが階段を転げ落ちていく音も。遊女と客の悲鳴が響き、楼主の四郎兵衛会所へ急げという声も響く。これではますます外に出られない。二人は思わず互いの身体を抱きしめ合い、恐怖に震えるしかない。その局で客を取っていた遊女が太夫たちを見つけ、さりげなく客と共に太夫と若旦那を瀬に隠すようにして立つ。鶴木屋の若旦那は小声で礼を述べつつその部屋にあった屏風を引き寄せ、太夫と共にその影に隠れた。  その時だった。若衆たちの必死の妨害も虚しく、浮気者が遂に二階に駆け上がり若駒太夫専用の局の襖を、刀で斬り破ったのは。
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