泥中の蓮

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 悲鳴が上がる。  太夫たちを匿っている遊女と客が、二人が見つからないよう屏風の前に立つ。荒い足音が響く。若駒太夫は屈み込み、できるだけ目立たぬように息を潜める。何の関係もない遊女たちが突き飛ばされ、客と浮気者の怒号が飛び交う。浮気者は二本差しを持っているがその他の客は無手。遊女を庇おうと抵抗し、斬りつけられてしまう。更に悲鳴が上がり、阿鼻叫喚地獄とその場は化した。 「どこに隠れた若駒太夫! 男と隠れても無駄ぞ、出てこい卑怯者め!」 「首代たちはまだか、まだ到着しないのか?」  妓楼屋に詰めている若衆も必死に抵抗するが、逆上している浮気者は常軌を逸した力を発揮しており歯が立たない。若衆たちもそれなりに腕は立つが、首代たちほど武芸の腕はない。そうこうするうちに浮気者は異様な殺気を放ちながら、太夫たちが隠れている局へと近付いてくる。  逃げた方向が反対側なら内風呂があったり、端女郎や禿たちが雑魚寝をする広い部屋があり、布団をしまう納戸が幾つもあり隠れるのに困らなかった。慌てていたために自ら袋小路へと逃げ込んでしまった。 「このままじゃ見つかる。太夫、この場は何とかするから隙を見て逃げるんだ」 「小次郎さまを置いて逃げるなんて、考えられんせん。わっちがあの男の前に出れば、何とかなるんではありんせんか」 「駄目だ、あの男の前に出たら何をされるか知れたものじゃない。わたしと若衆が時間を稼ぐ間に、首代たちが来てくれると思う。太夫は保護してもらうんだ」 「小次郎さまが危険な目に遭うのは、いやでありんす。ならば、わっちも一緒にあの男に立ち向かいんす!」  そんな押し問答をしていると、匿ってくれている遊女が屏風の前に客と共に立ち塞がった。その気配に遂に来たかと太夫は覚悟を決め、毅然とした面持ちで立ちあがる。割と小柄な若駒太夫はそれでも屏風から姿が見えないが、若旦那は髷が少し見えてしまった。 「女郎、そこを退け! 後ろにいる男は誰ぞ?」 「若衆でありんす。厠に立っていたのにこんな大騒ぎになって、思わずここに来んしたんでありんす」 「嘘をつけ、厠は一階にしかないだろう? 騙されんぞ!」  どこの揚屋にも二階にきちんと厠はある。よその格子と馴染んだくせに、今まで厠は一階にあるものを利用してから格子と床入りしていたため、その存在を知らなかった。半可通をさらけ出した浮気者は、激昂して女郎を峰打ちに打ち据えた。 「ぎゃあっ!」 「おい何をする!」  胸をしたたかに打ち据えられた女郎は、あまりの痛みに膝からくずおれる。遂に屏風が蹴倒され、隠れていた若旦那と若駒太夫が見つかってしまった。咄嗟に若旦那は太夫を背に庇うも、彼女は毅然と顔を上げて前に出ようとする。 「主はどなたでありんすか 。草履も脱がず二本差しも預けず、こんな乱暴狼藉を働くとは。恥を知りなんし! ここはおなごが優位の公許遊廓、今すぐ立ち去りなんし!」  刀をぶらさげ理性を飛ばした目の侍を前に一歩も引かず、遊女の最高位である太夫の誇りを存分に見せつけると、一瞬だけ浮気者は怯んだ。だがすぐに怒りの表情になり、意味不明な叫び声を上げながら若駒太夫に斬りかかってきた。 「そなたを殺して拙者も死ぬ、さあ黄泉路を共にいこうぞ!」  白刃が振り下ろされる。さすがに恐怖が太夫を支配し、指一本動かせない。身体に衝撃が走り、床に身体が投げ出される。頬に降りかかるのは温かい、赤い液体。自分を庇って、小次郎が斬られたことを理解するのに、数秒かかった。 「嫌ああっ! 小次郎さま、小次郎さま!」 「太夫、逃げてくんなまし! 早く!」  峰打ちにされた女郎が叫び、その敵娼(あいかた)が浮気者に飛びかかるも殴られる。もう一度その凶刃が今度こそ若駒太夫に振り下ろされようとした刹那、怒りに満ちた少女の怒声が部屋に響き渡った。 「何をしておるか、この慮外者めが!」  そこには首代数人を従え、小太刀を腰に佩き怒りの形相で仁王立ちする凛の姿があった。
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