泥中の蓮

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 凛たちが大三浦屋の付近を見回っていたのは偶然だった。彼女たちの班が受け持つ時間帯が過ぎたので、四郎兵衛会所へ戻る途中だったのだ。そこへ大三浦屋の若衆が飛び込んできて、浮気者が二本差しを持ったまま暴れているという情報を得た。しかも、不届き者の狙いは。 「若駒太夫を狙っているですって!?」  幼馴染みである太夫が絡むと、凛の理性はいとも容易く吹っ飛ぶ。手下の首代たちに声を掛けることなく、後ろを振り返ると一目散に大三浦屋へと駆けだしていった。 「お嬢!」  凛の父から彼女のお目付役を命じられている初老の繁蔵が、焦った声を出して追いかける。一拍遅れて他の首代や若衆も駆け出し、大三浦屋へ急ぐ。 「御免! 四郎兵衛会所の者だ、慮外者は何処だ!」 「あ、西田屋のお嬢さん! 奴は若駒太夫の局へ向かいました。お願いです、太夫を、太夫を!」  明朝で正式に若駒太夫の身柄は吉原から解放される。正しくは今夜の間は、まだ吉原に在籍する太夫であり商品なのだ。傷を付けられた状態で身請け先に引き渡すわけにいかない。そんなことになれば、逆に身請け先から違約金を請求されかねない。楼主たる三浦四郎左衛門の声に焦りが混じるのは、そんな事情からだ。  階段の先を見上げれば、遊女や客たちが奥の方を視ている。どうやらそちらの方へ太夫は逃げたらしい。幾人かやられたのか、解放している姿も見えた。時間がないと悟った凛は階段を駆け上がり、奥へ急ぐ。首代が到着したと悟った遊女と客たちがこぞって道をあける。  奥から怒声が響く。遊女の悲鳴が聞こえた。背筋に冷たい汗が流れるのを感じつつ、凛は左腰の小太刀に手を遣り鯉口を切る。いつでも抜刀できるようにしておきつつ、茶室刀も右手に握っておく。できれば小太刀の出番がないことを切に願う。慮外者を斬ることに躊躇いはないが、太夫に怪我をさせてしまうことが怖かった。 「そなたを殺して拙者も死ぬ、共に黄泉路を行こうぞ!」  何やら物騒な台詞が聞こえる。凛は野次馬を押しのけ最奥の局へと駆け込んだ。 「何をしておるか!」  声をあげれば脇差しを振り上げた侍と、血を流し倒れている町人の男。胸を押さえ逃げてと絶叫する遊女と、彼女を抱きしめ侍から距離を取ろうとする男。そして、恐怖で固まっている若駒太夫の姿。瞬時に凛の視界が怒りで真っ赤に染まる。一足飛びに慮外者との距離を詰めると、まずは茶室刀を振るい相手の右手首を渾身の力で打つ。 「ぐあっ!」  女の声がしたのとほぼ同時に、右手首に激痛が走り次いで痺れた。小ぶりとはいえ木刀だ、その威力は絶大である。その隙を突いて凛は小太刀を抜刀すると、慮外者の背中を袈裟に斬る。ほぼ同時に繁蔵をはじめとする首代たちが雪崩れ込み、慮外者の二本差しを奪い取ってしまった。 「誰か急いで戸板を持ってきて! 焼酎と晒し布もお願い!」  意味不明な言葉を喚き散らず慮外者も、四郎兵衛会所の首代数人に取り押さえられ身動きが取れなくなった。その間に凛は若駒太夫の元へ行き、部屋の奥へと連れて行く。大きく震える彼女の身体を抱きしめ、凛はなるべく小次郎の姿を視界から隠す。 「だ、旦那さま……小次郎さま……」  うわごとのように呟く若駒太夫を部屋の外へ移動させ、やってきた楼主と大三浦屋の若衆たちに預ける。凛は若衆の一人が持ってきた焼酎と晒し布を受け取ると、小次郎の怪我を診る。彼女は医師ではないが数々の修羅場を潜ってきた。おおよその怪我の程度は測れる。 (咄嗟に腕を入れて心の臓を斬られるのは防いだけれど、脾腹の傷が酷い。腕からの出血も……これは急がないと)  凛は繁蔵を呼びつけると、苦しむ小次郎の身体を押さえつけさせ焼酎を斬られた腕と脾腹の傷にぶっかける。まずは消毒をし、腕を心臓より上に上げさせる。繁蔵に二の腕をきつく縛り上げさせている間に凛は、脾腹の傷口を晒し布で押さえる。 (思ったよりも傷が深い。早く止血しないと)  腕の処置を終えた繁蔵と協力しながら脾腹に晒し布をきつく巻き、ようやくやってきた戸板に小次郎を乗せる。すぐさま医師の元へ運ばれていく。残った慮外者を、凛は茶室刀でまずは両目を、次いで鼻柱を強く打ち据えた。 「四郎兵衛会所へ連れて行け。じっくりと仕置きをしてくれる」  怒りに燃える凛の姿はまるで阿修羅のようだったと、後に居合わせた者たちが語るほどだった。
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