泥中の蓮

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 吉原でも屈指の妓楼(遊女屋)で今夜、新しく遊女が水揚げされる。水揚げとは遊女見習いである振袖新造が、初体験を迎える儀式のことである。振袖新造は当然生娘なので、水揚げの相手はこれぞというお客を時間をかけて選別する。女慣れしていて金離れも良い粋な客――それでいて振袖新造に不安を抱かせない男。そんな条件を易々と満たせる者は少ない。  何日も念入りに客の背後を洗い、間違いのない相手を選び抜いた。遊女の最高位である太夫候補の敵娼(あいかた)となる客には、材木問屋の隠居した大旦那が選ばれた。まだ武士が太夫の敵娼となることが殆どのこの時代で、その材木問屋は大層羽振りが良い。大三浦屋の関係者たちも大事な太夫候補に乱暴を働きかねない大名よりも、人当たりの良い老爺を選んだ。 「何とか間に合いましたねお嬢。――楼主はいるか」  凛に付き従ってきた首代のひとりが、大三浦屋の楼主を呼び出す。 「これは西田屋のお嬢様、ようこそおいでくださいました」 「楼主、まだ若駒(わかごま)太夫の水揚げは始まっていないわね?」 「まだでございます。大旦那も歳でございますからね、もう少し時間がかかるかもしれません」 「そう、ありがとう」  遊廓では本来、武士であろうと等しく二本差しを預けなければならない。刃傷沙汰を避けるためなのだが、例外として首代だけは武器を持ち込める。彼らは大切な商品たる遊女に乱暴狼藉を働く者たちを抑え込まねばならぬ為、時として客を武力でねじ伏せることも多々あった。  大三浦屋には二階に太夫しか使えない部屋が三室あり、太夫候補はその中でも階段にほど近い部屋を水揚げの儀式にと宛がわれた。材木問屋の大旦那がそれなりに老齢なことと、若駒太夫が初めてな事を考慮して、大見世の者が素早く対応できるようにとの配慮からだ。 「お前たちはここで待っていて」 「へい」  凛は素早く階段を上り、中にいるであろう太夫候補の新造に声を掛けた。 「お(こう)姉さま、西田屋の凛です。入ってもよろしいか?」 「……はい、どうぞ」  緊張しているのだろう、若駒太夫の声に若干の怯えと震えが感じられた。凛は静かに襖を開けると中に入り、煙草(きせる)盆を膝元に引き寄せて端座していた振袖新造の傍に近付く。凛の眼差しは何処までも優しくあたたかく、それが新造の凝り固まっていた緊張を少しずつほぐしていった。 「傍へ行ってもよろしいか?」 「はい、どうぞこちらへ」 「失礼します。お梗姉さま、今宵は水揚げですが――引き返すなら今ですよ」 「いえ、もうその名を呼ばないでくんなまし。わっちはもう、ぬしの兄君の許嫁(いいなずけ)じゃありんせん。……そんなことが許さりんせんことは、お凛さんが承知でありんしょう? わっちの運命は十年前のあの日に、狂わされてしまいんした」  悲しげに目を伏せる太夫の様子に、凛も胸が締め付けられる思いがした。思わず膝でにじり寄り、眼前の震える手をそっと両手で包み込む。凛の身体も震え、ずっと心の奥底にため込んでいた思いが溢れ出てくる。 「お梗姉さま、いえ若駒太夫」 「お凛さん。十年前のあの日、全ては変わってしまいんした」  口惜(くや)しげに唇を噛んだ若駒太夫と凛。二人の年の近い女たちは、運命が大きく変わってしまったあの頃に思いを馳せていった。
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