泥中の蓮

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 問題は若駒太夫の方だ。目の前で身請けしてくれた旦那が斬られ、医師の元に担ぎ込まれたが三日三晩苦しんだ挙げ句、結局息を引き取ってしまった。身請けは成立していたので若駒太夫――否、お梗は遊女屋を出て行かなければならない。住まいは凜と伯母のお須津が住む長屋へ移り、後追いしかねないお梗を二人がかりで監視する。 「旦那さま……旦那さま」  夜毎枕を濡らし、あの苦界から救ってくれた小次郎の名前を呼び続ける。それは四十九日間続き、五十日過ぎるとようやく床上げが出来た。 「夢枕に小次郎さまが出てきました。幸せになってほしい、と」 「お梗姉さま」 「小次郎さまは、あの苦界から救ってくれました。わっち、いえ、わたしは出家しようと思います。小次郎さまと廓で命を落とした遊女たちの弔いをしたいと思います」  それを聞いて、凛は自分もお梗について出家しようと決めた。自分がもう少し早くあの場に駆けつけていれば、若旦那は死なずにすんだかもしれない。その罪悪感が凛を押し潰しそうになる。そんな姪の心情を汲んで、お須津は幸正の娘を首代にするため仕込み始める。本来は凛の役目だが、彼女の心はお梗とともに出家することに傾いている。  ある日、凛は羅生門河岸へ足を運ぶ。そこには凛が見習いの頃に会った浮雲(うきぐも)格子が、年季が明けても身請けの相手がいないまま、最底辺の遊女へと落ちていったのだ。あんなに豪奢な着物や簪を身に纏っていた浮雲は、粗末な着物に艶のない髪が乱れている。 「浮雲、久しぶりだな」 「あれ……西田屋のお嬢さん。こんなみすぼらしい姿を見せて、恥ずかしいでありんす」 「そんなことはない。浮雲はあの頃とちっとも変わっていない、今でもいい女だよ」 「まぁ、おなごと判ってありんすのに、見事な男振り。……久しぶりに、お声だけで濡れんした」  まるで生娘のように頬を染め、いやいやをするように身を捩って潤んだ目を向けてくる。凛は微笑みを返すと、浮雲に身体を大事にするよう声をかけてから、出家の準備を進める。  そして小次郎の喪が明けたある日、やっとありんす言葉が抜けたお梗と凛は、首代二人を護衛に縁切り寺であり尼寺である東慶寺へ向けて出発した。無反の刀を仕込んだ杖を手に、四人は鎌倉に向けて歩く。 「お嬢、太夫――いえ、お梗さん。今生の別れではございますが、お元気で」 「繁蔵も、ここまでありがとう。達者でね」  東慶寺の敷地をまたげるのは、おなごのみ。首代二人の見送りを受け、凜とお梗は俗世と完全に縁を切るためにその一歩を踏み入れた。        了                            
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