泥中の蓮

6/30
前へ
/30ページ
次へ
 三日後。  吉原大門へと続く衣紋坂にある小間物屋の駒川(こまがわ)屋に、ひとりの若い首代が使者として現れた。 「ご隠居と旦那は在宅か。儂は西田屋の大旦那様の言いつけで参った」  店で金勘定をしていた番頭が、慌てて奥に引っ込み駒川屋の主人である泰造(たいぞう)を呼んできた。 「西田屋の大旦那様の代理人だと? はて、何のご用やら」  用向きに心当たりがない泰造は小首を傾げるが、客人を待たせるわけにはいかないと判断し奥の座敷へと使者を案内した。隠居である父は最近、流行り病を得て床から起き上がれない。主人である泰造もときおり咳き込みはするが、別段顔色は悪くはない。詫びると、使者は気にした素振りを見せなかった。  茶を出した駒川屋のお内儀(ないぎ)はそのまま下がろうとしたが、 「お内儀にも聞いて頂きたい」  との使者のひと言で、泰造の傍に控えめに座した。  改めて使者の格好を見ると、妙に格式張った正装をしている。これは何か重大な話だと判断した泰造は居住まいを正すと、それで? と話を促した。 「大旦那様から、この書状を預かってきました」  使者は懐から書状を出すと泰造に渡す。それを読み下した泰造は、震える手を何とか抑えつつ妻にも読むよう渡した。彼女は段々と顔色をなくし、読み終える頃には(おこり)でもおこしたかのように震えていた。 「お、お(こう)を西田屋跡取り様の許嫁に」 「大旦那様がお嬢さんをひと目見て気に入ったらしいです。良きご返答をお待ちしております」  使者はそう告げると音もなく立ち上がり、駒川家を後にした。 「だ、旦那様」 「お梗を西田屋さんの嫁に……」  降って湧いた話に困惑するが、よくよく考えてみればこれ以上はない良縁ともいえる。 「今のところお梗に弟妹はいないが、跡取りが今後授かるかもしれない。授からなかったとしても、弟夫婦には二人も男児がいる。何だったら養子にもらえば良いさ」  本音としてはお梗に婿を迎え、このまま駒川屋を継いでもらいたい。可愛い娘を余所にやるより、ずっと傍にいて欲しいと考えるくらいに泰造は娘を大切に思っていた。 「この話を受けて良いと思う。四郎兵衛会所の首代を束ねる家だ、お梗は苦労はしないだろう」 「えぇ。ただあの家は子どもに対して、厳しい武術指導を行うと聞きます。お梗がそれに耐えられるかどうか」 「あの子は意外と芯が強い子だ、心配することはない」 「だとよろしいのですが」  心配は尽きぬが夫の言う通り娘はしっかりしていると己に言い聞かせ、内儀は茶を下げて部屋を出て行った。泰造はすぐに婚約了承の返事を(したた)めると、番頭の与平(よへい)を呼んだ。そのとき妙に喉に違和感を覚え、咳き込んでしまった。呼吸をするとき肺腑に違和感を覚えたが、泰造は気のせいだと片付けた。 「番頭さん。悪いけどこの手紙を大至急、西田屋のご隠居さんに届けておくれ」 「へい。――これ、誰か」  店の要である番頭が帳場を空けて外出するわけにはいかないので、手の空いている若い者に使いを任せる。与平は奥へ引っ込んでいった泰造の後ろ姿を見送りながら、誰にも気付かれぬよう薄笑いを浮かべた。 (あの症状は間違いなく労咳。大旦那様に続いて、旦那様も罹患しなすったか。これは棚ぼたかもですねぇ)  帳場に座った与平は先ほどの続きとばかりに、金勘定にいそしむ。全幅の信頼を得ているために、店の金がどのように回っているか全て把握している。事実上、彼が主人代行なのだ。 (もう少し労咳が進めば邪魔者はいなくなる。ちらりと聞こえたが小娘も、婚約が調いこの家を出る。お内儀さまは旦那様の病気に気付いていないし、第二子などもうけることは不可能に近い。跡継ぎは是非とも……)  腹黒い考えが脳裏を駆け巡り、うっかり顔に出そうになるところをすんでの所で抑え込んだ。 (危ない危ない、まだまだ従順な番頭の振りをしておかないとな)  店の帳簿と同時に今後の人生設計の算盤をはじきながら、与平は頬の内側を噛んで緩みそうになる相好を保った。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加