泥中の蓮

8/30
前へ
/30ページ
次へ
 一年後。  駒川屋の主人である泰造の咳に血が混じり、身体はどんどん痩せ細っていき床に就くことが増えていった。やがて大旦那と同じく一日中布団で過ごしている。 「おじいさんも父さんも寝たきりになってしまったね。大丈夫かな」 「お嬢さん、病気がうつるといけませんので、部屋に近付いてはいけませんよ」  番頭の与平がお梗に忠告すると、彼女は寂しそうに頷くと母の元へ駆けていく。 「母さま、おじいさんにもお父さんにも近付いちゃいけないの?」 「……そうね、お前には難しい話かもしれないけれど、二人とも病気でね。お前にうつるかもしれないから、できるだけ襖の外から声を掛けてね」  三ヶ月後に祖父が苦しみながら息を引き取った。泰造も実父が亡くなった頃から緊張の糸が切れたのか、急速に病が進み娘の婚約が調ったことに安堵しつつ急逝してしまった。慶事のあとに弔辞が立て続けに起こった駒川屋だが、商売は相変わらず順調で今すぐ家業が傾くということはなかった。しかし二人の喪が明けると同時に、番頭の与平が胸に秘めていた野望を顕しはじめた。  事の起こりは泰造の喪が明けた翌日のことだった。泰造亡き後は彼の弟夫婦が駒川屋を継ぐことになっていたのだが、与平は 「帳簿の見直しがまだ終わっていませんので」  などと言い募り、なんのかんのと引き継ぎを先延ばしにしていた。  泰造の弟夫妻は、元吉原があった日本橋の人形町に住んでいる。元吉原で弟夫婦は笠屋を営業しており、兄夫婦が営んでいる小間物屋を引き継ぐのに問題はない。 「与平さん、もう兄の喪が明けたんでいい加減に家を譲ってくれないかい?」  泰造の弟、淳之介(じゅんのすけ)が痺れを切らせてわざわざ人形町から出向いてきた。未亡人も青い顔で同席しており、淳之介の味方をして早く帳簿の整理を終えて欲しいと懇願する。 「お内儀さんは、今後どうなさるんですかい」 「わたしは淳之介さんたちの店へ移り、笠屋を引き継ぎます。あちらの店の後継者がいなくなってしまったから」  その言葉に与平の目が大きく見開かれる。淳之介夫妻は人形町の店を畳んでから、こちらに移ると踏んでいたのだ。与平の心に暗い野望の炎が灯った。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加