第一話

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第一話

 ピピっと小気味よい音のあとにくるシャッター音。一瞬画面が暗くなり、すぐに水滴を花弁にのせたチューリップが笑顔をみせる。  カメラ背部のディスプレイで写真を確認した[[rb:深町 > ふかまち]]伊織は眉間の皺を深くさせた。  チューリップについた水滴にピントを合わせ、背景をぼかしたかったのだが、ぼけが強すぎて花の輪郭が滲んでいる。もう少し輪郭を残さないときれいなチューリップが台無しだ。  原因を探るため伊織は画面を操作する。  フォーカスは完璧だった。なら絞りとシャッタースピードに狂いが生じたのだろうか。  あれこれと設定を見直しても、どれが間違いで、どれが正しいのか分からなくなってくる。  光量や絞り、シャッタースピード、ホワイトバランスの配合によって写真の印象はがらりと変わる。   僅かな違いでもまったく別の顔をみせ、撮影者のくせが色濃く現れる。だから面白くて癖になるのだが、その僅かな差異に伊織は頭を悩ませていた。  頭の中でイメージを膨らませる。雨粒が残ったチューリップは生き生きと輝き、花の匂いに誘われて蝶々や蜂が飛び交っていた。この穏やかな場面をどう残したいか。  もう一度カメラを構えると肩を叩かれ、伊織は我に返った。  「校門のところにいてって言ったでしょ! どうしてウロウロしちゃうかな」  振り返ると従兄弟の横石[[rb:智美 > ともみ]]が両頬を膨らませていた。普段垂れている目がつり上がり、黒目がちな瞳に鋭さを含ませている。  「わりぃ。ここの花壇が綺麗だったからつい」  「本当にいおちゃんはカメラ小僧だね。そういうところ昔っから変わらないけど、大学生なんだからしっかりしてよ」  「はいはい」  伊織は立ち上がって校門の方に視線を向けた。  校門から大勢の学生が入ってきて、それぞれの講義場所へと向かっていく。同じ世代が集まっているのに一目で新入生がわかる。まだ大学の色に染まっていないせいだろう。  その初々しさは仇となりサークル勧誘の餌食に遭う。教室に着くまでに山のようなチラシを渡され処分に困る。  伊織も未だに渡される口だ。初々しさのかけらもない廃れた大学ライフを三年も過ごしているのだが、平均より低めの身長に大きな瞳と桃色の唇が幼さを助長させる。  童顔であることを気にしているだけに、チラシを渡されるたびにへこむ。  伊織が片付けるのを待ってから、智美は口を開いた。  「三年生にもなって、まだキャンパス内を覚えてないとか頭痛いよ」  「仕方がないだろ。去年まで隣県のキャンパスに通ってたし、こっちに来て一ヶ月しか経ってないだろ」  「……一ヶ月も経てば普通覚えてくるけどね」  智美はカールのかかった長い髪をがっくりと落とした。  去年まで通っていたキャンパスは敷地が狭く、一本道なので迷うことはなかった。だが三年に上がると都内のキャンパスに移動することになり、真新しい建物と複雑な道で途方に暮れた。  講義を受ける以前に教室に辿り着けるか怪しく、同じ大学に通っていた智美に道案内を頼んだ。  覚えられるように智美は丁寧に説明してくれるので、言葉は暗唱できるが、映像として認知できない。興味がないものに対しては頭の片隅にも入れたくない伊織の悪い性分だ。  伊織たちの通う大学は都内の一等地にありながら、東京ドーム三個分の広さを有する。芸術学部を主流とし、映像科、絵画科、彫刻科、芸術学科、建築科などがある。伊織は写真科に所属している。  「早く行かないと遅刻しちゃう。一限は十三号館だっけ?」  「うん」  「ではお客様、ご案内致しますので足下にお気をつけください」  智美は恭しくお辞儀をして、エスコートする執事のような気品をみせた。女の子から貫禄のある執事にがらりと変わる。さすが演劇科のエースだと伊織は目を丸くした。  智美に連れられて校内を進んでいく。白い建物が並んでいる道を抜けていくと、緑が多い広場に出た。  イーゼルを組み立てている人や発声練習をしている集団やモデルを前に写真を撮っているグループもある。皐月の陽気に誘われて、学生の数が多くみえた。  「ここは人が多いな」  「一年生も大学に慣れてくる頃だから、みんな伸び伸びしてるんだよ」  執事の仮面を外した智美は、緑を駆け抜ける風に目を細めた。カールした髪が風に煽られ後ろに流れていく。  頭の中で瞬時に構図が浮かぶ。いまだとカメラを構えてシャッターを切った。  「やっぱ上手く撮れない」  「こんな美女を撮っといて酷い言い草ね」  ディスプレイで写真を見せると「そうかな?」と智美は首を傾げた。  「いつも通り綺麗に撮れてると思うけど。いおちゃん的には納得できないんだ」  「うーん。納得というか満足できない」  画面の中の智美は楽しそうに笑っているものの、気持ちよさそうに風を感じている智美の感情まですくえてない。  「あれって航じゃない?」  「きゃあ!本当だ!」  黄色い声に振り返ると、みんなが同じ方向を見ていた。引っ張られるように視線を向けるとやけに背の高い男が歩いている。  男の周りにだけ小さな星屑が舞っているようにきらきらしている。埃が陽光に反射しているのか、男の白い肌がそうみせているのか他の人とは違う次元にいた。  男は周りの違和感に気付いたのか顔を俯かせ爪先を眺めながら足早に歩き始める。  「誰だあいつ」  「未来のカメラマン候補なら知っとかなきゃ。モデルの佐倉航くんだよ」  モデルと言われて納得した。航の周りだけくり抜かれたように浮き、人目を惹きつけるオーラがあった。  「そんな奴がなんでここにいるんだ?」  「航くんはうちの学生なんだよ。今年二年生でデザイン科なの」  「随分詳しいな」  「私はずっとこっちのキャンパスだったしね」  再び航の方を見ると数人の女に囲まれていた。相手が笑顔で話しかけるのに対し、航は口一文字のまま俯いている。その表情は早く帰りたいと言わんばかりに冷めているようにみえた。  誰かが話しかけてきたら相手と目を合わせるのが筋ってものだろう。つまらなそうにしている態度に少し腹が立つ。金を払って貰わないと笑ってやりませんってか。  「モデルだからってちょっと気取ってるな」  「やっぱそう思っちゃうか」  「なにが」  「ううん、ほら早く行こう」  智美の悲しそうな表情の理由を訊く間も与えず、伊織は小さい背中を追った。後ろではまだ黄色い歓声が響いている。
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