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第六話
写真科なら誰でも一眼レフカメラを携帯しているわけではない。実習や写真系のサークルに所属している者以外、持ってくることはほとんどない。
一眼はかなり重量がある。本体だけで四百グラムから千グラムまであり、レンズをつけるとさらに重量はかさむ。だから持ち歩くには不便なのだが、伊織は一年中カメラをぶら下げ、暇さえあれば写真を撮っていた。
「いおちゃんは本当にカメラが好きだよね」
ファインダーを覗くことに夢中になっていた伊織の隣に智美が腰を下ろした。ポニーテルに結んだ毛先がその名の通り馬のしっぽのように左右に揺れている。
灰色の雲は流れていき、今日は突き抜けるような青空に恵まれている。じめっとした空気はあるが、久々の太陽を拝もうと中庭で食事をしている学生が多い。その晴れ晴れとした表情を撮っていた。
「毎日撮ってないと落ち着かないんだ。でもやっぱり満足できない」
「そうかな。いおちゃんの写真は素敵だと思うけど」
隣からディスプレイを覗いた智美は撮った写真を一枚みてはこの構図はいい、色合いが好きと誉めてくれたがどうにも納得できない。
もう一度ファインダーを覗き望遠を最大限に伸ばす。木陰の下で昼食を食べているカップルやサッカーをしている集団などを四角に収める。
頭の中で瞬時に構図が浮かぶのに、シャッターを切ろうとなると霧散してしまう。
満足できない欲求が増していき、外に出ることなく体内で燻る。気持ちばかり焦って頭がおかしくなりそうだ。
ベンチを囲うような人だかりがファインダーに映り、望遠を伸ばし目を凝らすと航の姿がみえる。
航は女たちから矢継ぎ早に声をかけられ、困惑しているようだった。
モデルも大変だな。一度でも雑誌やテレビに出てしまうと本人の意思とは関係なく注目を浴びてしまう。
発言一つで揚げ足を取られ不用意な発言はできない。小さい不祥事でも大事にされ、世間からバッシングされる芸能人はテレビで嫌というほど流される。
不幸の甘い蜜を求める虫たちが、うじゃうじゃと寄り集まる姿は好きではない。
伊織はカシャっとシャッターを切った。ディスプレイをみると女たちの隙間から覗く航は、泣き出す寸前のような表情をしている。
「それ規約違反だよ」
「なにそれ」
「航くんの盗撮は護る会では全面的に禁止なの。だからそれ消して」
「減るもんじゃないしいいだろ」
「駄目ったら駄目。一人を許しちゃうと示しがつかないでしょ。でも私たちの見えないところで盗撮してる人は多いんだけどね」
「そうなのか?」
「私たちも四六時中航くんを見張れるわけじゃないし……でもちょっと待って、やっぱり航くんはかっこいいな」
智美は伊織からカメラを奪い、うっとりとした表情でディスプレイをみつめた。泣き出しそうな航の表情も元の顔が整っているだけにきれいに映る。
「モデルやってたときって、こいつはどんな顔してたんだ?」
「えっとね」
智美は鞄から男性向けのファッション雑誌を取り出し、付箋が貼ってあるページを開いてみせてくれた。
黒い背景に左から光を差しただけの暗い写真だった。けれど目鼻立ちのはっきりとした航の顔に色香を感じさせる陰影が浮かび、視線が釘付けにされる。
「きれいに撮れてるな」
「この色気を漂わせる視線とかたまらないよね。あとこっちの雑誌も」
鼻高々に智美は語りだし、次から次へと航が掲載されている雑誌を取り出した。
この量をいつも持ち歩いているのかよと少しうんざりしたのは秘密だ。
一通り写真を眺めていると、伊織はある共通点をみつけた。
「これ全部沢田康宏じゃん」
「誰それ?」
「お前こんだけ持ってるのに知らないわけ?」
呆れてみせると智美は両頬を膨らませた。
「別にいいでしょ。で、誰なの?」
「有名なカメラマンだよ。カメラ業界にいたら知らない人はいないほどの重鎮だぞ」
「だって私は演劇科だし」
「この大学に入学した奴なら誰でも知ってるはずだ」
智美の発言に肩を落とした。
沢田康宏に撮って貰えるモデルはそうはいないと小耳に挟んだことがある。気難しい性格で一度へそを曲げるとなかなか元に戻らず、揉めたモデルとは二度と仕事をしないという噂だ。
だがそれでも彼のカリスマ性に惚れ込み撮影を依頼するモデルは後を絶たないとか。
智美が持っていた雑誌すべてが沢田に撮影して貰っているということはコネがあるのか、ただ単に親交が深いのか。どちらにせよ伊織にとって羨ましい話だ。
「こいつはいつから休業してるんだ?」
「確か一年くらい前かな。彼が入学してすぐだったし。てかいおちゃん、航くんのこと興味なかったのにどうしたの?」
航の写真を撮る経緯を簡単に話すと、智美は瞳を輝かせた。
「でかした、いおちゃん! 航くんには復帰してもらいたいと思ってたから嬉しいよ」
「でもどうすればいいのかよくわかんねぇんだよ。こう撮りたいって構図は浮かんでも、あいつはレンズをみれないし」
智美は細い指を顎にあて、考えるように空を見上げた。
「よく聞くのはカメラマンとモデルが会話しながら撮るとか、誉めまくってやる気を出させるとか色々あるよね。たぶん、ただ撮りたいって気持ちじゃなくてモデルと呼吸を合わせることが大事なんだよ」
航の許可なくカメラを向け、怖がらせてしまった。自分の撮りたいという気持ちが先走り、呼吸を合わせるどころか、一方的に殴っていたようなものだ。
「呼吸か……俺には難しいな」
「いおちゃんは我が強すぎるんだよ。航くんを理解してあげることから始めたら?」
確かに智美の言うことは的を射ていると思う。写真は被写体がいないと成り立たない。
けれど我の強い伊織と内気な航が仲良くなれるのか、まったく想像できない。でも撮るならいい作品にしたい。
「航くんのプロフィールなら私に任せて! 全部教えてあげる」
智美はとんと胸を張った。心強い仲間ができたことに伊織は素直に感謝を口すると、智美は相好を崩した。
「いおちゃんのためだけじゃないよ。航くんのためでもあるんだから。まずは好きな食べ物からね」
航を撮りたいという純粋な気持ちに突き動かされ、智美の話に耳を傾けた。
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