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第七話
月曜の三限と木曜の四限はお互い時間が空いている。次も講義が控えているのでキャンパスを出るわけにもいかず、かといって人が多い場所では撮影どころではなくなるので、校門から一番遠い大学院の方で写真を撮ることになった。
中庭を抜け草原を通り過ぎると古い建物がひっそりと建っていた。青々しい木々が聳え立ち、心地よい風が調べを奏でている。
大学院とは名ばかりでいまは使われていない。廃墟に近く、どこか陰鬱な空気が澄んだ夏空に反して漂っているように感じた。
「こんなところあるんだな」
「あまり奥の方へ人は来ないので穴場です」
航はベージュのボトムスに白いTシャツだけのシンプルな服装なのだが、それが余裕の表れのようにみえる。伊織が同じ服装をしてもこうはならない。手抜きだね、と智美に笑われそうだ。
「あそこの日陰で撮ってもいいか? さすがにここまで天気がいいと日なたはきつい」
「はい」
照りつける太陽が肌をじりじりと焼き、体温があがってくる。拭っても汗はすぐに頬を辿り、すでにシャツはぐっしょり濡れていた。
汗だくの伊織をよそに、航は涼しい顔をしている。暑さも寒さも自分で調節できるのがモデルとしての初歩だと聞いたことがある。とても伊織には真似はできない芸当だ。
日陰の場所に移ると暑さは少しおさまり、汗が引いてくる。手汗を拭いカメラの調節を始める傍らで、航は伊織のカメラに興味を示した。
「なにをしてるですか?」
「カメラの設定」
伊織は手慣れた様子でボタンを操作し、数値を変えては試し撮りを繰り返す。
航の興味深そうな視線を感じ、伊織は説明を始めた。
「このfってのが絞りで、こっちの分数みたいなのがシャッタースピード。絞り値を変えると絞りの開き具合がかわって、レンズを通す光量が変わる。シャッタースピードはシャッターが開いてる時間のことだ」
「難しそうですね」
「慣れだよ。俺は感覚的にやってる。あとはホワイトバランスも考えたりする」
絞りとシャッタースピード、ホワイトバランスの組み合わせで写真の表情は変わる。だから一番大切な作業だ。
同じ場所で撮ってもカメラマンによって個性がでてくる。それに構図もまるっきり同じで撮れることは難しく、光量や構図、そしてモデルの表情などすべてを合わせて最高の写真を撮る。たった一枚でもかなり頭を使うのだ。
「こんなもんかな。じゃあ適当に立ってろ。で、レンズをみろ」
「……はい」
望遠レンズを装着しているので、モデルとの距離は五メートル近く離れてもきれいに撮れる。少し離れた方がレンズを向けるだろうと伊織なりの配慮だ。
大木の横に立った航を残し三メートルほど距離を空けた。
「何枚か撮るから適当にポーズとってて」
カメラを構えてファインダーを覗くと、航は耐えるように肩を強ばらせていた。迷子のような表情でとても撮れたものではない。
どうしてレンズが怖いのだろう。人の目にみえると言っていたけど、そこまで怯えるほどのものだろうか。
航の恐怖がわからない。
でもそれで済ましてはいけない。航と心を通わせて、いい写真を撮りたい。
「そういえば肉じゃがが好きなんだって」
「え?」
「公式プロフィールに書いてあった。俺も肉じゃが好きでよく作るよ。一人暮らしだから一週間分の肉じゃが作って、飽きたらカレーにしてる」
伊織が急に話し出したので、航はきょとんとしている。
「あと嫌いな食べ物が葉っぱ系だっけ? 葉っぱ系ってなに? レタス?」
「……モロヘイヤとかほうれん草とか」
「あーなんかわかる気がする。もろに草って色してるしな」
よし、うまくラリーは続いている。会話をしていくうちにリラックスしてきたのか、航の表情は柔らかくなってくる。伊織はファインダーを覗かず、胸の前でカメラを構えた。
「あと趣味がギターとか書いてあったけど」
「それ嘘なんですよ。ギターなんて弾けないのに、事務所が勝手に決めちゃって」
「年齢詐称じゃなく趣味詐称? 微妙だな」
ふっと航に笑顔が浮かび、シャッターボタンを素早く押した。カシャっという機械音が二人の間に響いく。
「一枚撮れた」
ディスプレイをみせると、航は呆気にとられたようにぽかんとしていた。
気を抜いていたのだろう、恐怖に苛まれた表情が消え年相応の笑顔の写真だった。技術も構図もないが、内側に隠している航の一部をすくえたような気がした。
「今日はカメラを構えない。普通にだべって、俺は適当にシャッターを切るよ。おまえはただ俺と喋ってくれればいい」
「どうしてそこまでやるんですか?」
「言っただろ、俺はおまえの写真を撮りたいだけだ」
「……あなたはやさしい人ですね」
航は笑いたいのに泣きたいような複雑な表情を浮かべ、伊織はもう一度シャッターを切った。
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